【第28回】 慢性期医療リレーインタビュー 長谷川和男氏

インタビュー 役員メッセージ

長谷川和男氏(いなみ野病院院長)

 兵庫県加古川市の特定医療法人社団仙齢会・いなみ野病院院長の長谷川和男先生は、産婦人科、がん、終末期まで幅広い経験をお持ちです。これまでの医師人生について、「患者さんの気持ちを酌むことが少なかった。自分の技術にうぬぼれていたのではないか」と振り返り、「大事なことは、その患者さんの気持ちを酌み取ってあげられるかどうか。医療を通じて人間を知るということは、医師としても、また自分自身が人間として成長するうえでも非常に大切なことです」と話します。
 

■ 医師を目指した動機
 

 私が医師を目指した動機はいくつかありまして、野口英世の伝記を読んだこと、父親が病弱だったことなどが挙げられます。最初のきっかけは、野口英世の伝記を読んだことです。小学校4年生の時でした。夏休みを利用して、母の実家がある松山市の祖父母宅まで初めて一人旅をしました。船に乗る前に両親が「独りで寂しいだろうから、これを読みなさい」と渡してくれたのが、野口英世の伝記でした。船に揺られながら一生懸命になって読んでいるうちに、医学的な研究に生涯をかけた彼の魅力に引き込まれ、「私も医師になりたい」と思いました。これが第一の動機です。その時は、医師よりもむしろ彼の偉大さと医学者としての人間像に憧れました。私の両親は医師ではなく、親戚にも医師はおりませんでした。

 父は肺結核でした。当時、肺結核と言えば重病です。父は働くことができず、母が学校の教師をしながら生計を支えていました。そうした中で、野口英世の伝記を読んだこともあり、「父のために何かできないか」と思いました。そこで幼心に、「医者になってみようか」と思いました。しかし、そんなに簡単にはいきませんでした。大学受験の時、母に「医学部に行きたい」と言いましたら、「一人前になるまでに時間がかかる」といわれ、反対されました。経済的に苦しい家庭でしたし、私は長男でしたので、早く社会人になって母親を支えてほしいと父も願っていました。しかし、私は反対を押し切って医学部を受験しました。結果は不合格でした。

 私は諦めきれず、浪人して神戸の予備校に通うことにしました。そこは医学部専門の予備校ではなかったのですが、医学部志望の友人が多かったので、医師になりたいという気持ちがますます強くなりました。予備校時代にお付き合いを始めた彼女が薬学部志望だったことも影響したと思います(笑)。私は必死に両親を説得しました。父はなかなか納得してくれませんでしたが、母は理解してくれました。それでようやく、父も「やってみろ」と応援してくれるようになり、幸いにも現在の神戸大学の前身である兵庫県立農科大学の医学進学課程に合格することができました。
 

■ 慢性期医療に携わって思うこと
 

 産婦人科医から、がんの手術、そして現在は慢性期医療に関わっています。振り返りますと、いわば「ゆりかごから墓場まで」という、人の一生に関わってきました。1人の人間が生まれてから死ぬまでの過程において、医師はどう対応していかなければならないかということが、おぼろげながら分かってきたところです。

 産婦人科医のころは妊婦さんのお気持ちを第一に考えました。人生の終末を迎えた患者さんの治療では、患者さんのお気持ちだけでなく、ご家族の気持ちも考えます。産婦人科医のときは、新しい生命の誕生に対する両親の期待がものすごく強いですから、そのお気持ちに対応できるような技術、能力が求められます。終末期医療では、ご家族にどのように納得していただくか、患者さんの状態をどう伝えていくかが大事です。

 がんセンターで、特に婦人科悪性腫瘍の子宮がんの手術をしているときは、そんなことは全く考えませんでした。とにかく医療技術を向上させることのみです。「痛い」と言われても、「がんを治すためには、それぐらいは我慢してください」という対応でした。例えば、抗がん剤の治療。「しんどい、食べられない」と患者さんは苦しみますが、「そんなことを言ってたらいかん」と。患者さんの中には、「こんなに辛いんだったら、もう殺してほしい」と言う人もいます。私は、「そんなことでは駄目だ」と励まし、とにかく命を救うことを考えました。そういう医療に一生懸命の日々でした。

 しかし、終末期の患者さんを診ているうちに、だんだん考えが変わってきました。自分が高齢になってきたことも関係しているのでしょう。いろいろな経験を重ねたこともあります。「それだけでは駄目だ」ということに気付きました。病気だけを治すとか、病気だけを扱うということではないということ。患者さんの気持ちが何よりも大切だということに気付きました。私が慢性期医療に携わったころは、高度急性期よりも後方の終末期医療が中心でしたので、特にそういう思いを強くしました。

 私が慢性期医療に携わった当時は、治療的なことが少なかったように思います。慢性期病院は、患者さんの社会復帰を目指すために治療する病院には思えませんでした。急性期病院では、「この患者さんをなんとか社会復帰させてやるんだ」という思いが強くありましたが、慢性期病院には高齢の患者さんが多いので、「それを切り返して果たしてどうなのか」という思いも一方でありました。「それが本当にいいのかどうか」ということではなく、「家族の意向で……」という面もありました。介護は本当に大変です。ですから、家族の思うような形で終末期を安らかに迎えさせてあげるという医療、そういう意味での慢性期医療に携わってきたという感じがあります。

 しかし最近は、急性期的な意味を持った慢性期医療の重要性を特に感じています。今、慢性期医療のすそ野が広くなっています。看取りなど終末期の対応をするのが慢性期医療の役割であるという狭い範囲ではなくなっています。急性期病院の平均在院日数が短縮されていますので、慢性期病院には急性期病院の後方病院としての機能がかなり求められています。急性期の病院は、「早く出さなきゃいかん」ということで大変です。その患者さんを引き受けるとしたら、慢性期か回復期リハの病院ぐらいしかありません。すぐには在宅に復帰できませんから、急性期病院と在宅医療とをつなぐ中間施設の役割が増大しています。しかも、今後の日本は少子高齢化がさらに進みますので、病気になるお年寄りが非常に多くなります。慢性期医療の役割がますます重要であると感じています。

 慢性期病院には、高齢者を治療して在宅に帰す役割がどんどん必要になってくるでしょう。それから、看取りです。本当に、「自然の看取り」がいいのかどうか。家族の意向に沿って延命を続けることが患者さん本人にとってどうなのか。ご家族へのインフォームド・コンセントも十分に必要になってきますので、「治す」だけの医療ではない側面が増えていきます。私が関わった当時の慢性期医療とは随分と変わってきましたので、これからも勉強を続けていかなければならないとの思いを強くしています。
 

■ これからの慢性期医療はどうあるべきか
 

 私はもともと産婦人科医でした。当時、「ベン・ケーシー」というテレビドラマの影響で外科医になりたかったのですが、早く一人前になって開業したいという思いがありましたので、外科医よりも産婦人科を選びました。大学院に進み、教授から、「次はがんを勉強しなさい」と言われ、学位のテーマとして、がんの研究をずっとやりました。学位をもらったら今度は「臨床の勉強をしなさい」と言われ、大学の裏にあった兵庫県立病院がんセンター(現・兵庫県立がんセンター)に出向の形で勤務し、婦人科悪性腫瘍のがん手術のほか、末期がんの患者さんも診療しました。先ほど少し申し上げましたが、人が生まれる時の医療から死ぬ時の医療までを経験しました。病気だけを治す医療と、患者さんの気持ちを考える医療ですね。

 今、こうして振り返りますと、「私は患者さんの気持ちを酌むことが少なかった」とか、「自分の技術にうぬぼれていたのではないか」と思います。患者さん自身よりも病気を診ていた。病気を診ることも必要ですが、その病気に苦しんでいる患者さんの気持ちも診る。難しいと思いますが、そこが大きなポイントではないかなと思っています。

 実は、医師という仕事を辞めてしまおうと思ったことが2回あります。私の上司が執刀した手術中、出血多量で術中死になりました。私はその手術を手伝っていました。もう1つは、まだ若い時ですが、産婦人科医としてアルバイトに行った時、妊娠中毒症で大量に出血しまして、お母さんの命は救えましたが赤ちゃんは亡くなりました。そのお母さんは子宮がなくなってしまいました。いずれも医療ミスではなかったのですが、自分の力ではどうにもできなかった。「救えなかった」という思いです。そのお母さんも、「私の命は助かったけれど、もう子どもができない」と悲しむ。私もその時、ものすごく悲しみ、悩みました。本当に申し訳なかった。救うことができなかった。ですから私は、病棟に笑い声があふれる生命の誕生にも接してきましたし、悲しい死にも接してきました。

 これからの慢性期医療は、私が長年経験してきた医療とは少し違うのかもしれません。新しい生命の誕生に接する医療ではない。ただひたすら救うという医療でもない。急性期病院での治療をいったん終えた患者さんをもう一度しっかり回復させて、再び家族と一緒に生活をさせてあげる医療です。患者さんの生活のこと、ご家族のこと、そしてどうしても治らない場合には、その後のことをご家族と一緒になって考えてあげられる医療です。

 ですから、まずこれからの慢性期医療に求められるのは、急性期病院からただ引き受けるというのではなく、救急的な治療機能を備えることが必要です。そのうえで、ご自宅にお戻しすることができるのか、いったん他の施設に入所させるのか、ということを患者さんやご家族と一緒に選択する。どうしても無理な場合は、しっかりとお看取りする。そういう多様な機能が必要であり、今後さらに求められてくると思います。これからは、急性期病院からの患者さんの9割以上を慢性期病院が引き受けるようになると思います。高齢社会に対応する医療、看護、介護などの総合的なサービスが求められていると考えます。
 

■ 若手医師へのメッセージ
 

 どんな職業でもそうでしょうが、「やっぱり死ぬまで勉強が必要だ」という思いがあります。Aという患者さん、Bという患者さん、みんな違います。共通点はあっても対応は違います。その時代によっても、変えていかなければいけません。ところが、若いドクターは経験が少ないせいか、みんな同じ目線で、あえて言うと患者さんを見下げるような態度を目にすることもあります。患者さんの視点に立って、その人の気持ちになって考えていくことが、医師に限らず必要ではないかと思います。

慢性期医療では患者さんの身になって考えることが特に必要になります。急性期では、そんなことを考える余裕がありません。すぐに手術して、早く助けなきゃいけませんから、患者さんの気持ちよりも、まず手術して、一応のレベルまで回復させることが最優先になります。そのために、医療技術の修練に重きが置かれます。若いうちは、そういう医療に邁進してもいいかもしれません。しかし、ある時、ふと立ち止まることがあると思います。私の転機は40代の後半でした。

 私は兵庫県立病院がんセンターで、かなりの婦人科悪性腫瘍の手術を行い、多くの症例を経験いたしました。このことによって他大学の偉い先生から「長谷川君は、いろいろな症例を経験し、積極的にがん治療に携わっているから」ということで、日本癌治療学会の役員や子宮癌研究会学術集会の会長などもやらせていただきました。その途中では、「神戸大学へ帰ってこい」と言われましたが、大学ではがん治療は、どちらかと言えば主流ではありませんでした。そのため私は大学には戻らずに、がんセンターに20数年勤め、副院長もさせていただきました。私は副院長になった当時、いろいろな改革に着手しようと思いました。いつまでも大学の傘下にいるだけでは病院の発展性がないし、いろんな所から優秀なドクターを集めなければいかんという気持ちになりました。しかし、その後大学の意向や県の医療行政のからみから、別の病院の院長ポストが空くので、「そっちで、まず院長代行をやってくれ、栄転ですよ」と言われましてね(笑)。副院長でもいいので、がんセンターにいたかったのですが、結局、一般の急性期病院への異動を命じられました。その気持ちは夢に終わりました。

 私は一般の急性期病院では「もうがんの治療はできない」という思いでした。ほかにも、いろんな事がありました。その辺りは、医療行政の難しいところです。もうこのまま公務員として続けるのはどうかという思い、また大学との関係もいろいろ難しいことがありましたので、きっぱり諦めました。ちょうど、自分の指導者であった産婦人科の先輩が、現在の病院で院長をされていました。先輩にまた教えてもらおうか、ということになりました。今度は産婦人科のことではなく、慢性期医療のことを教わろうと。自分自身も老人になっていきますから、「がん医療から離れて高齢者医療をやろう」と決意して、切り替えたわけです。それからもう10年になります。

 若い医師のみなさんも、すぐに40歳、50歳になります。44~45歳ぐらいになると、医療技術が身に付いて、手術も独り立ちできるようになるでしょう。それまでは手術することに精一杯で、「出血させてはいかん」とか、もちろん「手術の時に死んでしまったらいかん、失敗したらいかん」ということが常に頭にあります。とにかく技術ということを非常に強く意識している。しかし、それだけでは駄目です。技術を習得して余裕が出てきたら、患者さんの気持ちに目を向けてほしい。自分が主治医になったとき、そして部長になって回診するとき、患者さんの気持ちのつかみ方が大きく違います。患者さんとの接し方が違います。やっぱり医者というのは経験が必要なんだと思います。ほかの職業でもそうでしょうね。特に、人と接する職業はそうかもしれません。

 私は3人兄弟で、妹と弟もなぜか人間を相手にする職業に就いていました。妹は小学校の教師でした。弟は警察官です。警察官は他人と接する機会がとても多いと思いますが、医者の方が多いかもしれません。医者も警察官も人間、接する相手も人間です。同じ人間ですから、人間の気持ちというのを考えることがとても大切です。相手の立場で考えてやるということです。警察官だったら、罪を犯した気持ち、犯人を育てた親の気持ち、いろいろなことを考えて、ただ罪を罰するということではなく、更生させて社会復帰につなげていくという視点も非常に大切であろうと思うのです。

 私は産婦人科医を経て、がんの治療に携わり、現在に至っています。今、共通して貫いているものがあるとすれば、患者さんの気持ちを大切にするということです。医療技術の向上に必死であった時期もありますが、やはり病気を診るというよりも、患者さんの気持ちを診るということです。がんに罹患した患者さん、お産で陣痛に苦しんでいる女性、それぞれその人にしか分からない痛みがあります。分からないからこそ、しっかり患者さんのお話に耳を傾けて、どのような痛みがあるのか、何が患者さんを苦しめているのかを患者さんから引き出す。そして、精神的なケアもする。

 慢性期病院では、会話ができなくなったお年寄りの患者さんでも、「あー」と声を発する際に、何らかの表情があります。ですから、会話にならなくても話しかけてやる。それに対して表情が出てくる。確かに、いろんな病気を知って、いろんな経験をすることは大事です。でも、それ以上に大事なことは、やはりその患者さんの気持ちを酌み取ってあげられるかどうかではないでしょうか。コミュニケーションをしっかり取って、人間と人間とのつながりを大切にしてほしい。若い皆さんには、ぜひそういう医療をやってほしいなと思っています。若い医師にとって、患者さんの多くは人生の先輩です。ですから、自分の親として、あるいは自分のおじいさん、おばあさんと思って接してほしい。医療を通じて人間を知るということは、医師としても、また自分自身が人間として成長するうえでも非常に大切なことです。
 

■ 日本慢性期医療協会への期待
 

 がんセンターを辞めた時、終末期医療に携わろうと決心しました。がんセンターでは、がん末期の患者さんを診ていた経験もありましたし、日本癌治療学会の役員を務めたり、この慢性期医療学会に参加したり、日本老年医学会に行ったりと、そういう機会がいろいろありました。この日本慢性期医療協会が主催した学会で、終末期の医療をテーマにしたシンポジウムがありました。その会場でいろいろな質問をしましたら、終了後に武久会長から「えらく頑張ってるなあ」とお声をかけてくださいまして、「当協会の役員をしてくれないか」とのお誘いを受けました。そこで、私も自分自身の勉強のために「やりましょう」と快諾しまして、それ以来、この日本慢性期医療協会の活動に関わっています。

 慢性期医療のすそ野が広がっていますので、今後さらに活動の幅が広がっていくと思います。慢性期医療の底辺がいかに広いかを知ってもらえるような活動に期待しています。世の中には、いまだに「看取りの病院だ」という誤解をしている急性期の医者が多すぎる嫌いがあります。もしかしたら、患者さんもそう思っているのかもしれません。

 「慢性期病院は終末期だけを扱う病院だ」と思われないように、私たち会員が現場の声を発信して、多くの方々に知っていただくよう努力していく必要があると思います。慢性期医療について、特に急性期病院のドクターに知ってほしいと思います。私自身、急性期病院にいたころは慢性期病院を誤解していて、「看取りの医療だ」と思っていましたが、今は「決してそんなことはないんだ」という気持ちの方が強いです。

 慢性期医療がもっと幅広いということを知ってもらうため、いろいろなセミナーを開催したり、こうしたインタビューなどをブログに掲載したりして、慢性期医療の重要性や必要性を一般の方々にも知っていただき、慢性期医療に対する理解が深まり、すそ野が広がっていくことに期待しています。(聞き手・新井裕充)
 

【プロフィール】
 
 長谷川和男(はせがわかずお)

 昭和16年生まれ
 特定医療法人 社団仙齢会 常任理事兼いなみ野病院院長
 
 昭和42年3月  神戸医科大学卒業
 昭和43年3月  神戸医科大学付属病院にて医学実地修練開始修了
 昭和43年4月  神戸大学大学院医学研究科(専攻-産婦人科学)入学
 昭和43年9月  医師免許取得
 昭和47年3月  神戸大学大学院医学研究科(専攻-産婦人科学)修了
 昭和47年3月  医学博士号授与さる
    (論文題目:実験的子宮頚癌の増殖過程における細胞増殖動態に関する研究)
 昭和49年9月  神戸大学医学部産科婦人科学教室助手
 昭和50年5月  兵庫県立病院がんセンタ-婦人科医長として勤務
 昭和56年12月  日本臨床細胞学会細胞診指導医認定さる
 昭和59年5月  兵庫県立成人病センタ-産婦人科医長
 昭和63年1月  日本臨床細胞学会評議員に選出される
 平成元年4月  兵庫県立成人病センタ-産婦人科部長
 平成3年5月  日本癌治療学会評議員に選出される
 平成4年7月  兵庫県から医療事情視察のため北米(米国、カナダ)に派遣さる
 平成7年11月  日本婦人科がん化学療法共同研究会世話人に任命さる
 平成7年12月  子宮癌研究会理事に任命さる
 平成9年4月  兵庫県成人病検診管理指導協議会子宮がん部会委員に任命さる
 平成10年11月  第38回子宮癌研究会学術集会会長を務める
 平成11年4月  兵庫県立成人病センタ-診療部長兼産婦人科部長
         日本産婦人科学会代議員に選出される
 平成11年9月  日本婦人科がん化学療法共同研究会子宮頚がんプロトコール委員長
 平成11年12月  日本婦人科悪性腫瘍化学療法学会評議員に選出される
         日本婦人科腫瘍学会評議員に選出される
 平成12年4月  兵庫県立成人病センタ-副院長兼産婦人科部長
 平成13年4月  兵庫県立加古川病院副院長(院長代行)兼産婦人科部長
 平成13年4月  日本臨床細胞学会兵庫県支部長就任、現在に至る
 平成13年8月  日本癌治療学会臨床試験登録医に認定さる
 平成14年3月  日本婦人科腫瘍学会理事に委嘱さる
 平成14年4月  日本悪性腫瘍化学療法研究機構理事に委嘱さる
 平成15年6月  兵庫県立加古川病院副院長兼産婦人科部長退職
 平成15年7月  いなみ野病院副院長に着任
 平成19年4月  日本臨床細胞学会功労会員に推戴さる
 平成19年10月  日本癌治療学会功労会員に推戴さる
 平成19年11月  いなみ野病院院長に就任、現在に至る
 平成21年7月  日本慢性期医療協会理事(監事)に委嘱さる
 平成22年12月  JGOG(婦人科悪性腫瘍研究機構)功労会員に推戴さる

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