【第16回】 慢性期医療リレーインタビュー 田中志子氏

インタビュー 役員メッセージ

田中志子先生(日慢協常任理事)

 「私が目指すものは『ハッピーエンド・オブ・ライフ』です。『ハッピー』という言葉こそ、『エンド・オブ・ライフ』に使うべきだと思っています」──。群馬県の医療法人大誠会・内田病院の理事長で、日本慢性期医療協会常任理事の田中志子先生は、認知症患者さんと向き合って約20年。「自分の人生、家族の人生、患者さんやご家族の人生が、私たちのまちで続いてほしい。地域の患者さんと長く関わっていけることが慢性期医療の魅力です」と話します。
 

■ 医師を目指した動機
 

 なぜ医師になったのか。私はあちこちで公言しているのですが、それは父に言われたからです。内田病院は父がつくった病院です。私は三人兄弟の長女ですが、跡継ぎの弟がいましたし、小さいころから「何になってもいいよ」と言われていましたので、高校3年生までは英語の先生になりたいと思っていました。ところが、高3の夏に父から突然、「医学部に行け。医学部でなければ一切支援しない」と厳しく言われてしまいました。

 振り返りますと、医師になってほしいと父が思っていることは薄々感じていましたが、「弟が医者になればいいや」と思っていました。医師になりたいという気持ちは全くなく、ドクターの自分を想像することさえありませんでした。高校生の時、憧れていた女性の英語教師がいましたので、「私もこうなりたい」と思って文系の大学を気楽に探していました。そんな様子を見た父が、ある時突然、かなり強烈に「医学部に行かなければ経済支援しないので好きにしろ」と言いました。けんかもしましたが、父の言う通りに医学部を目指すことにしました。

 私は理数系が苦手でしたので、最初は本当にイヤでした。でも父は、「医者に必要なのは理数系の能力ではない。人とのつながりや、おまえの文系的な良さが必ず生きる。おまえは医者に向いている」と私を説得しました。今思えば、あの時、父に激しく、強く勧めてもらってよかった。父が言った通り、私にはこの仕事が本当に向いています。こんなに生きがいがあって、楽しくて、人とつながっていける仕事があるのでしょうか。医師として看護学校で教えることもありますから、「人に教える仕事」という夢も叶いました。私は今、毎日が楽しくて、何の不満もありません。父に感謝しています。
 

■ 慢性期医療に携わって思うこと
 

 大学を卒業した後、地元の大学に戻ることになりました。実は、母校帝京大学の附属病院で研修するつもりでした。関係者への挨拶回りをすませていたのですが、またもや突然、父から「戻ってこい」という連絡が入りまして、急きょ群馬に戻ることになりました。それから4年間ぐらい、群馬県内の大学病院や救急病院などで研修医として経験を積みました。

 ちょうどそのころです。サラリーマンと結婚することになり、その準備で慌ただしくなりましたので、婚約期間の1年間ぐらいを父の病院でアルバイトして過ごそうと考えました。父の病院は、慢性期医療を中心とする病院です。ほんの腰掛け気分で、お小遣い稼ぎをするような軽い気持ちで考えて父の病院に行きましたところ、スコーン!とはまってしまいました。とにかく楽しくて楽しくて、その時から医師という仕事が大好きになりました。最初は大変でしたが、さまざまな苦労を乗り越えた末、1つの成功体験をつかみ、そして慢性期医療が大好きになりました。それ以来、ずっと慢性期医療に携わっています。

 ただ、最初は大変でした。その当時のことをちょっとお話しいたします。私がアルバイトで父の病院に勤めたころ、病棟を看護師らに任せっきりでした。父は外科医ですので、病棟まで手が回らず、ちょうど病院を19床から100床、さらに施設を100床ぐらいに一気に増床している最中で、父は多忙を極めていました。人手も足りなかったと思います。目が行き届いていませんでした。私は内科医ですので、まず病棟を回りました。そうしたら、患者さんがみんな縛られているんです。「えっ!?」と思いました。あり得ない光景でした。

 私は本当に許せなかったのですが、そんなことになっているとは父も知らなかったようでした。病棟まで手が回らないし、改善する余力もないようでした。それで、「おまえに頼む」という感じになりまして、私が毎日毎日、縛られている患者さんをほどいて回りました。看護師らスタッフの抵抗は激しかったと思います。「死んでいく人に頑張っても仕方ない」という、当時の「残念な医療」と言うのでしょうか、そういう考えのスタッフがいました。

 「院長の娘が帰ってきた」ということで、最初はあからさまに冷たい態度を取られました。「おはよう」と言っても無視される。それでも私は、毎日毎日、ほどいて回りました。朝、病棟に行くと何十人も縛られていますので、それをほどいて回りました。そして夕方、外来の診察等を終えてから病棟に行くと、また縛られています。そこで、またほどいて。その繰り返しです。半年間、1人でほどいて回りました。毎日毎日、本当に悔しくて仕方がありませんでした。

 でも、「信念を持ってやっていればスタッフにもいつか伝わる」と思って続けました。ほどいてあげると患者さんに笑顔が出て、「ありがとう」と言って喜んでくれます。その患者さんの言葉を励みにして、ずっと続けました。私が着任してから半年後ぐらいでしょうか、「田中先生が正しい」と言うスタッフがポツボツと現れ始め、1年後には全く縛らないようになりました。それ以来、当院は身体拘束ゼロです。強い信念と努力で今日まで来ました。

 縛るのをやめてから、病棟全体が明るい雰囲気に変わりました。しかし、それまでは闘いの日々です。「なぜ、死んでいく人をケアしなくちゃいけないの?」と不満を漏らすスタッフもいました。しかし、私は「亡くなる時こそ、しっかりケアしてあげなきゃいけない」と言い続けました。そうした中で、やる気のあるスタッフは残り、反発した看護師らはみな辞めていきました。

 その一方で、キラリと光るスタッフがどんどん力を発揮してきて、病棟全体をいい方向に導いていきました。そのころでしょうか。チームで取り組むことの楽しさ、マネジメントすることの面白さを知りました。例えば、群馬県はゴミの最終処分場がないため、おむつの処理料がものすごくかかっていました。そこで、おむつを使う量を減らそうと考え、排泄ケアに取り組んだり、食事をメニューや食器から見直したり、いろいろな改善をしました。よくよく考えますと、これが「トータルケア」なんですね。「チーム医療」や「多職種協働」というものを強く意識しました。約20年前のことです。急性期にはない楽しさを体感しました。そんなことを積み重ねながら、私はどんどん慢性期医療にはまっていきました。

 ただ、当時はまだ「慢性期医療」という概念はなかったと思います。群馬大学で講師をした際に「慢性期」という言葉を使いましたら、教授から「慢性期医療という言葉を初めて聞いた」と驚かれました。しかし、私自身は「慢性期という分野がある」ということを強く意識していました。つまり、ゆっくり治していく、そして私も患者さんと一緒に年を取る。そこには、長期に関わる慢性期のケアというものの奥深さがある。良くなっても悪くなっても、患者さんと共に時間を過ごす。

 お見舞いに来ていた子どもが小学生になり、やがてお母さんになって子どもを連れてくる。あんなに小さかった子が、いつの間にか赤ちゃんを連れてきて、「え? もうそんなに大きくなったの?」ということがあります。そういう長い年月を経たつながりって、急性期病院では絶対に感じられないことです。

 父が地元でやってきた、かかりつけの医療。やがて病院になり、施設を持ち、今日まで来ました。「地域のために、あなたのために。」という当院の理念そのものが、慢性期医療にある。最初は軽い風邪で来院されても、亡くなるまでずっと関わっていける。慢性期医療に携わってきて、今そんなことを思っています。
 

■ これからの慢性期医療はどうあるべきか
 

 約20年前、当院に来てから本当にいろいろなことがありました。さまざまな日々を乗り越え、現在は本当にいいスタッフに囲まれています。モチベーションも高く、ポテンシャルもある。本当に素晴らしいスタッフです。そうした中で、これから私が目指すものは「ハッピーエンド・オブ・ライフ」で、当院の平成25年度のスローガンです。「ハッピーエンド」という言葉こそ、「エンド・オブ・ライフ」に使うべきだと思っています。

 当院で亡くなる患者さんは、最期のお顔が本当に綺麗。ご家族の方々が、「本当にここで亡くなってよかった」とおっしゃってくれることがとても多いのです。私たちにとって、その一言は最高のご褒美です。もちろん、入院してから治っていくし、改善していくのですが、やはり最期はいつか来る。その時、亡くなってもなお「よかった」と言ってくださる。これ以上の褒め言葉はありません。

 現在改築が進んでいる新しい病棟で、シンボルマークのツリーをつくります。まだ枯れ木ですが、そのツリーに葉っぱを付けて満開にしたいと考えています。1枚1枚の葉っぱを、1人ひとりの患者さんに付けてもらいます。私たちの病院で過ごして本当に良かったと思ってくれる患者さんに、1枚ずつ葉っぱを付けてもらって満開にするのが私たちの夢です。

 霊安室を快適な海が見えるフロアに設置している病院があるように、そういった最良の日々を過ごして最期の最期まで大切にするという心が大切だと思います。当院に外来受診している患者さんから、「ここで看取ってもらうから」とか、「おれの命をあんたに預ける」とおっしゃっていただける。こんなに素晴らしい仕事はありません。地域の患者さんと何年も、何十年も関わっていける。最期はご家族と、「あの時はこんなことがあったよね」とお話ししながらお看取りする。自宅でも、施設でも、病院でも、「ハッピーエンド・オブ・ライフ」が送れるようなまちづくりをやっていくべきだし、やり始めています。

 取材などで、「なぜそんなに認知症ケアに一生懸命なのですか?」「なぜそんなに高齢者医療を頑張るのですか?」ときかれることがあります。それは、老若男女が安心して生きられるようなまちづくりをしたいからです。医療を通じてまちづくりに貢献したい。私は医師という専門職の立場から地域を見つめ、まちづくりに役立ちたいと考えています。

 1人の母親として、自分の子どもたちがまた帰ってこられるようなまちにしたい。子どもや孫の世代になっても、一緒に働く場所があって、「これからもよろしくね」と言えるようなまちにしたい。それが私の目指すところであり、夢です。そのために、今の日々が重なっていく。決して日々が切り取られたものではなく、自分の人生、家族の人生、患者さんやご家族の人生が、私たちのまちで続いてほしい。そのために、私は慢性期医療に関わっています。
 

■ 若手医師へのメッセージ
 

 現在、臓器別の診療が中心ですが、もっと自分のふるさとや地域に目を向けていってほしいと思います。もっと視野を広げて、患者さんの肝臓はどんな身体に入っているのか、その身体はどんな人が支えているのか、その人はどんなまちに住んでいるのか。そして、その人たちをどうしてあげたら、このまちはもっと良くなるのか。臓器じゃなくて人を見る。その人の周囲にいる家族を見る。その人や家族らが暮らしているまちを見る。そういう俯瞰した視点を持てるような医師を目指してほしいと思います。

 もちろん、臓器に目を向けることはとても大切なことだと思います。闘わなければいけないステージはありますが、すべての医師がそこに行く必要はない。闘う医師はごく一部でいいと思う。これからの急性期病院の数、ベッドの数などを考えますと、慢性期医療のボリュームのほうが圧倒的に多いはずです。私は、若い先生方に「慢性期医療って、すごく楽しいよ」ということが言いたい。ですから、急性期医療を一通り経験した後は、慢性期医療にもぜひ目を向けてほしいと思います。

 特に女性医師の場合、ワークライフバランスを考えても、慢性期医療はとても働きやすい領域だと思います。ペースがゆったりしていて、自分に合ったペースで仕事をすることができます。当院の看護師は、子育てのために1年間の休暇をしっかり取ります。そして、必ず戻ってきます。女性医師の子育てのための短時間勤務はもう10年以上前から取り組んでいます。また、復帰する時は休職した時よりももっとハッピーになるように配慮しています。私は、女性が仕事のために「産まない」とか「休まない」という選択肢がなくなるようにしたいです。

 女性には、仕事よりも家庭を大切になければならない時期があると思います。たとえそういう時期でも、慢性期医療は関わっていける分野ですし、人生に潤いを与えてくれます。生と死をじっくりと考える。そういう時間は常にあっていい。慢性期のステージは、女性医師にとても向いていると思います。私は慢性期医療が大好きです。誇りを持って慢性期医療に携わっています。
 

■ 日本慢性期医療協会への期待
 

 たくさんありますが、「発信していける協会」に期待しています。現場の問題点や患者さんの声、ご家族の思いなどをきちんと発信していく。私たちのことをあまりよく知らない人たちに発信していける協会です。現在、そういう取組みや活動が非常に充実していると思いますが、さらに発信力を強めていけたらいいなと思います。たとえ自分たちの主張通りにならなかったとしても、問題を提起するということはとても大切なことだと思います。国全体で議論する。みんなで考えることがこれからますます重要になると思っています。

 特に最近、胃ろうの問題をめぐって議論になっていますが、2009年に開催された「第17回・日本慢性期医療学会浜松大会」で、私は「今こそ胃ろうを考えよう~慢性期医療での胃ろうのあり方を問う~」というシンポジウムを開催しました。その時、PEGドクターズネットワークの鈴木裕理事長(国際医療福祉大学病院外科教授)に、こうお願いしました。
 「胃ろうをつくる立場として、はっきり意見を述べてください。胃ろうがすべて良いとは思っていないということを公的な場でおっしゃってください」と。そうしましたら、本当にはっきりおっしゃってくださった。そのころからでしょうか、胃ろうに関するさまざまな調査が始まったと記憶しています。現在、こんなに問題になるもっと前から、私たち日慢協は胃ろうの問題を考えていました。常に一歩先を見て、問題点を提起していくことは、これからも必要だと思います。ただ、最近はこの問題が取り違えられて、胃ろうは嫌だから経鼻経管栄養という例が増えていますが、患者さんにとって苦しい選択になっている例もあり、もっと正しい見解を広める必要を感じています。

 もう1つ例を挙げます。先日、私は「認知症科」の創設を提案しました。患者さんはどこに行っていいのか分からないからです。最終目標は1つです。いつでもどこでも、認知症のことを理解しているお医者さんがたくさんいること。でも、そこにたどり着くまでにはまだ距離があります。どこに認知症のドクターがいるのか分からない現状を交通整理する必要があります。

 そのためにまず、「私が認知症を診ます」という先生が手を挙げられるように、「認知症科」をつくってほしい。そうでないと、認知症があまり得意でない精神科の先生の所に行ってしまい、お薬が合わなかったということが起こる。あるいは、認知症は診ているけれども診断までで、その後にどこへ行ったらいいのか分からず途方に暮れてしまう患者さんがすごく多い。

 認知症の診断から、その後の治療、家族の支援、慢性期医療まですべてきちんと診るというドクターにはぜひ「認知症科」を標榜してもらう。国が認知症に力を入れる方針であるのに、誰に相談していいのか分からない状況が続いている。これを何とか改善したいと思っています。

 先日、こうした考えを武久洋三会長にお伝えしましたら、「よし分かった。厚労省と調整する」と、すぐに動いてくださった。会長が、「認知症科」の提案を記者会見で発表しましたら、キャリアブレインさんのニュースにすぐに出ていました。「会長は本当に頼りになる!」と思いました。とても嬉しかったです。

「認知症科」の狙い、そのゴールはもちろん、いつでもどこでも、認知症を診てくれるドクターがたくさん増えることです。患者さんのためにみんなが手をつないで、よりよい医療を目指していきたい。そのためにも、協会が現場の意見や政策提言などをどんどん発信していけたらいいと思います。制度に後から付いて行くのではなく、常に問題を提起して、その問題を解決する方向に日本を引っ張っていく。そんな協会になれるように、私もお手伝いしていきたいと思っています。(聞き手・新井裕充)
 

【プロフィール】

 田中 志子 Yukiko Tanaka
 たなか・ゆきこ

 医療法人大誠会理事長 社会福祉法人久仁会理事長
 群馬県認知症疾患医療センター内田病院センター長

 医学博士。1991年群馬大学附属病院第一内科、2004年介護老人保健施設大誠苑施設長、07年社会福祉法人久仁会理事長、10年医療法人大誠会副理事長、11年同理事長。日本内科学会総合内科専門医、日本老年医学会老年病専門医、日本認知症学会認知症専門医・指導医、認知症サポート医、認知症介護指導者、日本医師会認定産業医、介護支援専門員。日本慢性期医療協会常任理事、特定非営利法人手をつなごう理事長、特定非営利法人シルバー総合研究所理事長。

 著書に「介護福祉のための医学」(弘文堂)、「介護福祉士講座 こころとからだのしくみ」(建帛社)、「医療介護福祉士認定講座テキスト」(厚生科学研究所)など。
 

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