【第5回】 慢性期医療リレーインタビュー 猿原孝行氏
「100人の医学生がいたらね、神の手を持つ医者になるのは100人のうち1人で十分。99人は在野に出て、各家々に上がり込んでいろんなことを助言できる医者になることが必要じゃないかな」──。慢性期医療リレーインタビュー第5回は、医療法人社団・和恵会の理事長、猿原孝行先生です。
■ 医師を目指した動機
僕は金沢に住んでいました。高校時代に親戚縁者に医者が多かったことや、金沢大の医学部学生の寮が近くにあり交流があったことなどが医師を目指した動機といえば動機です。
僕が高校生のころ、60年安保闘争が起きていました。全国で学生運動が盛んになって、金沢大学もその騒動とは無縁ではありませんでした。金沢大学にも全学連の石川県支部みたいなものができて、そこの学生たちが寮に近いわが家によく来ていた。大半の学生は医学部でした。そして日米安保条約のいろんなことを議論していた。僕は高校生で小僧だったから議論の内容は全然分からなかったが、自分より4つも5つも年上の学生たちが激論を交わしているのを部屋の片隅で音声として聴いていた。医学部の学生たちが授業や卒業式をボイコットしようだとか議論していた。そんな光景でした。
親戚の医者は土砂降りの中でも自転車に乗り往診をしていました。その後を看護婦が追いかけていました。片や学生たちは口角泡を飛ばす勢いで議論し合っている。医者や医者を目指す人たちへの印象はそんな雰囲気の中で醸成されたのかもしれません。真摯という言葉を当時知っていたとは思えませんが、まあ、真面目な人たちという印象を持ったのでしょうか。だからどういう訳か分かりませんが、高校卒業と同時に「医者になろう」と思った。医師の道を選ぶのに、それほどためらいはなかった。
それと、私の父は明治の生まれで堅い人物でしたが、けっこう懐が広かった。学生運動が日ごと過激になり、金沢でも公安に追われているような医学部の学生たちが出てきて、寮を追われる人も出ました。そんな学生のたまり場として1部屋を貸し与えていた。そんな学生たちを、父は「かぶき者」と呼んでいたことを思い出します。かぶき者とは多分、「時代に反発する者」という意味合いがあったと思います。また、父は警察に追われている純粋無垢な学生をかくまうという義侠心をも持っていたのかもしれません。わが家の中にできた学生たちのたまり場では、毎晩ほとんど徹夜で学生たちが激論を戦わせていました。私は部屋の片隅で、まあ、膝小僧を抱えて事の成り行きを見ていたという日常でした。そして昭和39年の春にそんな感覚を身につけた子供が金沢から東京新宿へ上京して来たわけです。学生服を着て坊主頭のままで新宿に着いたことを覚えています。
昭和39年は1964年で60年安保闘争後まだ4年しか経っていなかったためか、闘争が激しかったためか、若い情熱が不完全燃焼で、その残り火がまだ完全には消えていない状態で都内のいろいろな大学でくすぶっていました。一方、昭和39年といえばオリンピック開催、ビートルズの来日公演があり、時代の流れが日本国内の流れから外国の流れの中に巻き込まれるような時代でもありました。そんな時に「インターン問題」が浮上したのです。
そうすると、僕としては必然的に、そこに身を置く(笑)。インターン問題からインターン闘争へと行くのですが、僕としては、そこにいたほうが、なんとなく馴染みのある関係で居心地が良かったのかもしれません。ただ、60年安保と70年安保で何が違っていたのかと言うと、先鋭化された武力闘争に向かったので、今思えばそこら辺が決別する時期だった。最初は紳士的に「インターン制度廃止」と言いながら練り歩くだけでしたが、その後少しづつ活動が過激になったわけです。そして決別したころ、東大闘争が起きたり浅間山荘事件が起きたりして、学生運動は急速に衰退していった。そういう時代の流れの中にいた。
高校時代は、戦後間もないこともあり覚醒剤中毒……今思えば……の人が「妄想」的な話をリンゴ箱の上に乗り演説している光景を目にしました。ポカーンと口を開けて「何であんな人がいるのだろうか?」という感じで眺めていたのですかねえ。
また、近くの山には精神病院がありました。鉄格子がはまっていて、時々奇声が聞こえてきました。そんな環境の中で「正常と異常」ということに興味を持ち始めたと思います。「気が狂う」というのが、どういう事なのか結局長いテーマとなりましたが萌芽は高校時代にあったような気がします。
高校時代に真面目な医学生がお互い殴り合うような議論を展開している場面に何度も遭遇しました。しかし、その時は異常とは思いませんでした。大学に入りデモでゲバ棒を振り回す場面にも出会いました。その時は何か異常な事をしている、という感覚がありました。自分の中で起きたその感覚の違いは何から起きたのか、長い時間掛けて自問自答することになります。量的な意味で気が狂った状態と、質的な意味で気が狂った状態との違い。その時代、その時代の何らかの基準があって、そこからはみ出したものを狂気と言う。その辺りに自分の結論が落ち着いたように思います。
しかし、いまだに僕にとって永遠のテーマです。なぜ、この人は気が狂うのか、よく分からない。その原因を遺伝性に求めたり、世の中のせいにしたり、いろんな方法で解決しようとしているのでしょうけれども、いまだによく分からない。
■ 慢性期医療に携わって思うこと
当時、精神科講座は学生運動の経験者連中が逃げ込む場所だったと思います。その傾向は昭和40年卒業生から5、6年は続いたと思います。これは全国的な傾向だったと考えてよいと思います。
個人名は出せないけれど、いろいろな大学におりました。そのような方々の特徴の一つは正義感が強いということではないでしょうか。そしてそのような方々は一方で行政へも進んだように思います。情熱に燃えた熱血行政マンが技官としてつくられたわけです。老人の医療は当時いろいろと批判されていました。その批判の大半は、例えば「点滴づけ」とか「薬づけ」とか「検査づけ」という内容で、時々マスコミ報道されるほどになりました。そうした中、各界からいろいろな指摘される医療の改革を「老人医療」から始める流れになったのでしょう。各方面からいろいろな意見が出され錯綜する中で、真面目で情熱のある正義感の強い技官たちがよく働き、既存の法制度の中でどう変えたらいいのかを考え抜いたと思います。今でもその辛抱には驚いています。我々は日々、悪しき老人医療を変えようと実践し、その過程でいろいろ起きる問題点を提言してきましたが、彼らは実に熱心に耳を傾けてくれました。その根底には、お互い医者としてのヒューマニズムがあったからだと思っています。
これからの時代は「非癌多死」時代です。言うまでもないことですが人は必ず死ぬ。どんなことをしても人は死ぬ。そこで常日頃から、「死というのは一体誰のものなのか」ということを考えるようにしなければならない。例えば、おじいちゃんが死にそうだとする。医者が来て、「あと1時間もつかどうか」という判断をする。そうしたら家族が飛んできて、「あと3時間もたせてほしい」と言う。「なんで?」ときいたら、「孫が今こっちに向かっている。おじいちゃんがすごくかわいがっていた孫だから、死に水を取らせたい」と言う。
そこで思う。なんか、自然の摂理からちょっと逸脱した医療を提供しないともたない。家族の要望で、何らかの無理をする。その結果、孫が間に合って、それで満足するかもしれないけれども、1時間が3時間になったところで、本当に本人はそれを喜んでいるのかどうか。このおじいちゃんの死は、お孫さんのものか、あるいはおじいちゃんを取り囲むご家族のものか。彼らを満足させるために、おじいちゃんは苦しみを引き延ばされる。それで果たしていいのかどうか。
あるいは医療側の責任として、万が一訴訟になったときに備えて、「あの検査をしておこう」「この薬剤を使っておこう」という感じで命を引き延ばすこともある。それで本当に、その人の命を尊重したことになるのか。医療側の責任逃れのために、そのおじいちゃんが使われたような気もする。
そうではなく、本当にその人の命を全うするということはどういうことなのか。そういうことを、慢性期医療をやりながら日々考えています。
昭和54年ごろ、有吉佐和子の「恍惚の人」を読んだ影響は相当強かった。ちょうどそのころ、僕は開業したばかりで往診をしていた。認知症の高齢者が座敷牢のような所に閉じこめられている、そういう光景が2、3か所の家で見られた。
もう、それを見るのがつらくてね。そうせざるを得ないご家族の気持ちもつらいだろう。そういう処遇を受けている高齢者もつらいだろう。あれは悲惨でしたよ。それをなんとかしたいと思った。そのために、病院をつくろうと思った。それが昭和56年、悩み抜きました。悩んだ揚げ句、湖東病院を立ち上げたわけです。
その後、診る患者さんは認知症が多くなりました。昭和56年頃、精神科医の中でも認知症を扱うのは極めて少数派だった。今でもそうかもしれないが、精神科というのは統合失調症が中心です。そこで使う薬剤は精神科の薬剤で特殊です。私が精神科医になった頃はクロールプロマジンの時代でした。しかし、ここ15年ほどで新しい精神科薬がたくさん出てきました。非定型抗精神病薬や第2世代抗うつ病薬のSSRI、SNRIなどです。僕は第一世代までは知っていたのですが、老人医療の分野に入り、第2世代のことは分からないようになっていました。
それと気になっていたのは、第2世代の抗うつ病薬が出るのと軌を一にして自殺も増えていて年間3万人を越える時代になっていることでした。新しい抗精神病薬が出てきて、ドーっと自殺者が増えた。その薬の売り上げに比例して、自殺者が増えていった。これはちょっとおかしいんじゃないかと思った。それで精神医療の現場を見ようと思って、今から3年前、自分の病院をいったん辞めて、他の精神科の病院に常勤医として1年間勤務した。その病院の院長が先輩だったので、患者さんを15人ぐらい受け持たせてもらった。そして1年間、精神科の現場に行ったわけです。
3年前に常勤医として1年間働いたその病院で、びっくりしたことがある。40年以上前の患者さんがまだいた。僕は昭和45年に大学を出て、春の連休からその病院でアルバイトをして、夏休みもそこでアルバイトをした。その時、ある患者さんの予診を担当した。先輩院長から渡された患者の履歴を確かめるためカルテを開いたら、予診の所に私の文字が残っていたのですよ。これには驚きましたね。「エッ もう40年」という感じでした。そんなことを経験しながら、認知症の現場に役に立つ物はないか? と考えています。
私が認知症の病棟を持つとき、私には二つの中から選択することができたのです。一つは「医療」でもう一つは「介護」でした。あの時、医療保険では「認知症治療病棟」といいました。しかし、認知症に「治療」ということができるのかどうか疑問を持ちました。根本的な治療など出来ないはずだ。だって老化現象として出てくるので老化を止める手立てがない以上、「治療」はできないはずだからです。それよりも脳の老化に伴って出てくる、いわゆる「周辺症状」への対策が問題であるはずで、そのような患者に対しては「治療」より「介護」が必要ではないかという思いを強く持っていました。お漏らしすることを医療で何とかするというより、手を掛けて「清潔」にするべきではないでしょうか? そこで介護保険を選択して「介護療養型医療施設」として「認知症専門療養棟」を開設し運用することにしたわけです。
だが、政治力が無いものだから「キュアからケアへ」という認知症高齢者への正しい哲学が風前の灯火状態です。そして正常と異常……、結論が出ていない、のですよ。僕のどの部分が正常で、どの部分が異常なのかな……と思うことがある(笑)。
■ これからの慢性期医療はどうあるべきか
今、僕が一番恐れているのは、これから来る時代「非癌多死」のこと。ちょっと抽象的で申し訳ないけれど、日本人の死の行方があやふやになっていること。現在、日本人の8割以上が病院で死んでいる。
では、病院で死ぬというのはどういうことかと言えば、科学的根拠に基づいて死を全うできるということでしょうか?
科学的であるがために検査や治療が行われます。そこでは現在、日本人は年間100万人程が死んでいる。これから団塊の世代が高齢者になり、少しずつ死に始めるころ、年間160万人ぐらい死んでいくと推計されている。それを今までと同じように病院で死を迎え、科学的根拠を与えることはもう不可能です。病院はそもそも治すところであって「死ぬ」場所ではないからです。
しかし、死ぬ間際というのは、ものすごく医療費が掛かる。だから死の間際だけの医療だけをやって利益を得るという方法も成立します。そんな病院もある。そういうのは、先ほどの「正常と異常」で言えば、異常だと思う。異常な病院。
何が言いたいのかと言うと、厚生労働省は「在宅だ」と言うけれど、将来推計によれば在宅死はあまり増えないんですよ。現在、約20万人が自宅で死を迎えている。しかし、増えても24、25万人だろう。なぜかと言うと、在宅にキャパがない。「老老介護」とか「認認介護」とか言われるように、親たちは子どもたちにお金を掛けて教育を施して育てたけれども、その子どもたちが親元に残っていない。小学校、中学校、高校と優秀な成績で、親は鼻高々なんだけれども、気が付いたら大学卒業後に商社に入って今は海外にいます、という例をたくさん見ている。認知症の夫を86歳の奥さんが介護しているというお宅に往診に行っていたことがある。2人とも教育者だった。子どもが3人いたが教育を受けて外国に行ってしまい、結局地元に残っているのは、その老夫婦だけ。
だから、「在宅で死にましょう」と厚生労働省がいかに誘導しても、在宅死はせいぜい25~26万人。今後、年間160万人が死んでいく中で、25~26万人以外が特養や老健で死ぬとしても、そこはせいぜい現在の9万人が15万人になる程度。そうすると、病院を除いた「その他」の施設で約50万人が死んでいく。そのとき、「その他」の施設で果たして、この人は死にそうだ、アッ死んでいるという判断を誰がするのでしょうか? 大いに疑問が残ります。そして、そこでは誰が死亡診断書を書くのでしょうか。死亡診断書がないと埋葬もできません。まさしく宙に浮いた死体がゴロゴロする時代の到来だ。
以前、ある学会で「死亡診断書を医者に書かせるな。僧侶に書かせろ」と発言したら、それ以来、呼ばれなくなったけれども……(笑)。死亡診断書を医者に書かせるから、医者が裁判で訴えられないように一生懸命やって「過剰医療」という現象につながっていく。だから、死亡診断書を医者が書いてもいいし、看護師が書いてもいいし、僧侶が書いてもいいというふうに制度を改めるべきではないか。そんなことを学会で言ったら、もう呼ばれないけれども(笑)。
しかし、そこのところを整理していかないと、何でもかんでも医者に最期の責任を取らせて死亡診断書を書かせるという制度のままだと、先ほども言いましたがいくら「キュアからケア」と言っても「キュア」にしがみつく医療関係者が温存される。その温存された医者たちがこれからの高齢者にとって幸せをもたらすのかどうか? 疑問だな。団塊の世代はまた苦難を迎え「苦難世代」と呼称されるかもしれません。そんなことを考えています。
■ 若手医師へのメッセージ
100人の医学生がいたらね、神の手を持つ医者になるのは100人のうち1人で十分だと思う。99人は在野に出て、いわゆる「家庭医」という存在を目指してもらいたい。各家々に上がり込んでいけるような医者になって、いろんなことを助言できるような医者になることが必要じゃないかな。
そういう医者が身辺にいないと、「私はこの家で死にたい」という国民の願望を叶えることができない。
100人の医者が100人、すべて神の手を持つ医者を目指すというのはね、こんなの不経済きわまりない。神の手より「温かい手を持つ医者」を目指してほしい。社会はそんな医者を求めていると思います。そんな気がします。
■ 日本慢性期医療協会への期待
慢性期医療というのはね、ものすごくすそ野が広い。特別養護老人ホームでなされる医療、介護老人保健施設でなされる医療。それから日本医師会がやっているような医療、要するに開業医がやる医療、これはほとんど慢性期医療ですよ。
急性期の医療というのはDPCによって、かなり定義づけがなされている。入院期間1週間から10日が勝負。そこを離れた患者さんは、ほとんどすべて慢性期です。回復期とか維持期とか難しいカテゴリーを使わないで、そこはすべて慢性期ですよ。
だから、先ほど言った「神の手」にかかる患者さんは、日本全体の患者さんの中の2割程度ではないかな。8割が慢性期だと思っていい。そこで求められる医療というのは「温かい手」というか、気楽に相談できる感じの医者像ですかね。格段特別なものではないと思います。
慢性期医療とはそういうものですよ、ということをね、これからも「日本慢性期医療協会」には提言を続けて頂き日本の医療を守る防波堤の役を担ってもらいたい。(聞き手・新井裕充)
【プロフィール】
昭和20年9月生まれ
昭和45年東京医科大学卒業
昭和56年4月湖東病院開設
平成5年12月医療法人和恵会設立
平成18年7月社会福祉法人行和会設立
精神保健指定医
2012年3月19日