【第34回】慢性期医療リレーインタビュー 小林武彦氏

インタビュー 役員メッセージ

小林武彦氏(愛生館コバヤシヘルスケアシステム理事長)

 「人々の人生をより豊かにします」という使命の下、愛知県碧南市で小林記念病院や小規模多機能ホーム、老人保健施設「ひまわり」、訪問看護ステーション、特養「ひまわり」、などを運営する「愛生館コバヤシヘルスケアシステム」には、全従業員が会議などで必ず携帯する冊子があります。それは「愛生館フィロソフィ」という経営指針。かつて倒産の危機に直面した際、小林武彦理事長が京セラ名誉会長の稲盛和夫氏に学び、自ら作成しました。小林理事長は、「全従業員のベクトルを合わせて進む。自分の概念を変更する努力をしないと経営は難しい」と語ります。
 

■ 医師を目指した動機
 

 このブログインタビューをいつも興味深く読んでいます。みなさん、それぞれの個性が非常によく出ていますね。同じ質問でも答えがまるで違う。私も多くの先生方と同じように医師の二代目でして、やはり父の影響を色濃く受けて育っているんだなというのは感じます。

 父は最近、97歳で亡くなりました。大正4年生まれで、旧制中学時代に結核におかされました。父の実の妹も結核で亡くなっていますから、非常に悩んだようです。そんなこともあって、キリスト教に帰依していたんですね。父の人生では、キリスト教が非常に大きなウエイトを占めています。父の人生を左右したものはキリスト教と戦争でしょうか。キリスト教信者で医者ということで、かの有名な聖路加国際病院の日野原重明先生とも非常に親しいお付き合いがあったようです。

 父は軍医として各地を回りました。終戦を迎えた場所が愛知県の海軍明治航空基地。戦争中に突貫工事でつくり、戦争が終わると同時に消えてしまった飛行場です。愛知県に明治用水というのがありまして、これは「日本のデンマーク」として我々の教科書に載っていたような有名な用水です。都築弥厚の計画でつくられ、安城という場所にありました。ゼロ戦の戦闘員を教育して鹿児島のほうに飛び立たせる基地だったようです。父はそこで軍医として終戦を迎えました。父は海軍に所属し、軍医の中でも大尉でしたので、地位は上のほうだったのでしょう。

 父の実家は茨城県の古河ですが、母は茨城に帰りたくなかったようでした。古河には叔父の病院などもありましたが、古河に比べると愛知県のほうが気候温暖ですし、海の幸をはじめ食べ物もおいしい。父は好人物で、周囲から大変親切にされたようですので、終戦を迎えた愛知で、周囲に親戚関係もない所で無一文から病院を始めました。これが父の人生です。

 父はとても熱心に働き、その時々に主流となっている医療を手がけてきました。ある時は結核、ある時は胃カメラ。名古屋大学からレベルの高い医者に来てもらって肺の手術などもやりました。当時は終戦間もない時期でしたから、大学病院の医者はあまりおいしい物を食べていませんでした。母は、そういう大学病院の医者たちを海の幸がいっぱいの手料理で歓待しました。

 私はまだ小学生ぐらいだったと思いますが、大学病院の先生方と一緒にお風呂に入りました。そこで先生方から「君は大きくなったら名古屋大学の外科に来い」と繰り返し言われるわけです。私が医師になった動機として、そのようなバックグラウンドが大きく影響していますね。

 当時の父の病院は小規模でしたが、私は周囲から「病院の子ども」という目で見られていたようです。当然のように地域のいわゆる進学校に進み、普通に勉強しました。もちろん、反抗期もありました。「医者なんかならない」と反発した時期もありましたが、結局は医学の道を選びました。

 当時は医学部3,000人の時代。その後、各県に1校の医科大学ができて、8,000人、9,000人と急に増えましたが、私の時代は医学部を受験するだけでも大変でした。それでも、やはり父のような医者になろうと思いながら、川の流れのように自然に医者になっていきました。
 

■ 慢性期医療に携わって思うこと
 

 研修医時代を過ごしたのは大月市民病院。私にとって、医師人生の出発点です。当時の大月市民病院は閑散としていました。院長は山岳部出身でアユ釣りが大好き、下駄で富士山を登頂したという経歴の持ち主です。新米の私は若手で勉学に燃えていたのですが、「一緒に釣りをやろう」と誘うわけです。診療時間中ですよ。若い医者たちもサボっている。今では信じられないような話です。私はそういう環境で研修医時代を過ごしました。
 
 「研修医」と言いましたが、当時はまだ現在のような研修医制度がない時代でしたので、医師免許を持っていればもう一人前の医者として扱われました。しかし、当然のことながら実力はありません。同院の構成は、内科医が2名、整形外科医1名、産婦人科医1名、外科医2名と、常勤の医師はたったこれだけ。医師は全員、私よりはるかに年上です。大学から週1回、内科の助教授や整形外科の助教授、外科の助教授らが来ていました。

 私は全診療科の医師のお手伝いをしました。大学の助教授が病院に来れば、彼らの診療に付く。整形外科の手術にも入るし、外来もやる。忙しくてほかの先生方が逃げちゃう場合でも、私は全く逃げずに、とことこ入っていく。「おい、小林来い!」「はい!」という感じです。産婦人科の先生は少し優しくて、「小林先生」と言ってくれまして、「小林先生、ちょっと一緒にやろうよ」と誘ってくれました。医師不足で、各科の先生がみな手伝ってほしい状況ですから、あちこちの診療科の手術にどんどん入る。そういう研修医時代でした。

 当然、技術の上達スピードは速い。私は最初、盲腸もロクに切れませんでしたが、そういう環境ですので、1年も経たないうちに胃袋ぐらいは1人で簡単に取れるようになりました。救急もたくさんやりました。中央自動車道に中央分離帯がない時代ですから、正面衝突の大事故がたくさんありました。私は外科ですので、当直の時は救急車で運ばれる外傷患者さんをたくさん診ました。

 一方、救急で運ばれる患者さんのなかには、腹痛の患者さんもいました。しかし、外科医が当直の時には、「腹痛は対応できない」と思われていました。「ところが私は、「腹痛が得意だ」と周囲に宣伝しました。そうすると、「小林が当直の時は腹痛の患者も診てくれる」と思ってくれるので、手術の症例数が非常に増えるわけです。

 ご存じのように腹痛の原因は様々で、急性の盲腸だったり胃潰瘍だったり胆石だったり、大腸がんの末期だったりいろいろな原因で起こります。いわば、外科医にとって手術材料の宝庫です。すぐに検査、そして外科の助教授が来る。私が付く。この助教授は、非常に手術が上手で、教え方も大変的確でした。助教授のおかげで、私の手技は急速に上達しました。もちろん、きちがいのように勉強しましたし、食事の時は箸を左手で持って訓練するなど、さまざまな努力をしました。有能な助教授たちに仕込まれながら、手術の症例は自分で集めました。自分の病院をやろうという決心が当時からありましたので、多くの疾患に幅広く対応できる必要があると考えていました。

 日本慢性期医療協会のメンバーの中には、内科出身の先生をはじめ、外科医から慢性期医療に入った先生、救急医から移った先生など、いろいろいらっしゃいます。もともと老年内科医として慢性期医療に長く携わっている先生もおりますが、私のように外科からスタートした先生もいます。私自身、外科医として一生懸命やっているうちに「外科だけではダメだ」ということを思い、次第に慢性期医療に入ってきました。最初から慢性期医療ではなかったのです。慢性期医療に携わって思うことは、慢性期医療は総合的な医療が集約されたものがあるということです。現在、臓器別の医学教育のなかで、診療科ごとに専門分化しています。例えば、内科医と外科医は考え方がずいぶんと違います。それぞれの持ち味を生かして、患者さんにとって最良の医療が提供できればいいと思っています。

 昭和50年前後でしょうか、大阪大学を中心に救急医学がどんどん進歩、発展した時代がありました。彼らから救急医学の知識や技術を教わり、救急医学関連の学会にも参加していました。救急医学の検査・治療のあり方が国によって違うということも知りました。私は一時、心臓血管外科のグループに属していたことがありました。心電図を読めない内科医もたくさんいます。私は当時、週1回で1年ぐらいやったでしょうか。大学病院でその日にとった心電図を全部読む仕事をしました。心電図だけを見てもよく分からないものですから、病棟に夜遅くとことこ行って、その患者さんの胸の写真や電解質データを見たりカルテを見たり、そんなことをやっていました。当時は心臓の全体の大きさしか分からない。筋肉の厚さは当時の診断技術では分からなかったんですね。今は超音波によって形態学で診ることができますが、当時は分かりませんでしたので、心電図上から見て、「心臓の筋肉肥大がある、ない」という診断をしていたわけです。

 同じ心電図でも、外科の心電図の読み方と内科医の読み方はまるで違います。循環器内科の先生から意見を聴いたこともよく覚えています。内科の先生は、すごくもっともな理論展開をするのですが、外科医の立場では「この人を手術してもいいのか、いけないのか」という視点で見る。つまり、手術に耐えられるだけの心臓なのかどうか。心電図はその判断の1つにすぎない。おなかの触り方も違います。外科医は、「自分はこの人のおなかを切る必要があるのか、それともまだ切らなくていいのか」という最後の決断を迫られるなかで、おなかを触る。評論家として触るのか、切るかどうかを決断するために触るのか。おなかを触る際の視点が違うという面があります。

 私は組織のチーム力が非常に重要であると思っています。後ほど詳しくご説明いたしますが、当「愛生館コバヤシヘルスケアシステム」には、「愛生館フィロソフィ」という経営指針があります。全従業員が会議等で必ず携帯する冊子で、私が作成しました。「愛生館フィロソフィ」は、愛生館の従業員としてのあるべき姿や目指すべき方向性を示しています。これは私個人の考えや理念という存在ではなく、理事長の上に位置し、理事長の日々の経営判断基準も「愛生館フィロソフィ」に基づいて行われます。全従業員も同様です。2冊目は「ベクトル」と呼ぶダイアリーで、愛生館の使命や理念に始まり、各部門や部署の目標を明示し、個人の習慣づくりや目標管理などに使っています。

 こうした経営指針やビジョンの下では、「俺は外科医だから」とか「内科医の立場では」ということにならない。すべてのスタッフがバラバラにならず、目標に向かって進むことができるのです。みんなのベクトルを合わせて、進む道や考え方を共有する。副院長も看護部長も、清掃の従業員もすべて一緒です。これからの慢性期医療、介護、福祉は、このように全従業員の価値観や考え方を共にしたうえで進めていく必要があると考えています。
 

■ これからの慢性期医療はどうあるべきか
 

 慢性期医療をせっせとやるようになった頃、私はもう臨床医としてはあまり働いていなくて、経営者としての仕事が中心でした。そうしたなか、病院の経営が傾き始め、倒産の危機を迎えました。原因は過剰な設備投資です。医療ニーズの変化に対応して、「これが必要」「あれも必要」と考えるたびに借金をして、増築や改築などを進めたわけです。経営者としてのセンスが全然ないままに規模を拡大し、病院が傾いた。「これはもうダメだな」と思いましたね。医療関係者に相談しても、全くらちが明かない。
 なんとか当座のお金を工面して継続することはできましたが、経営改善を図らないまま続けても同じ事態が生じると思いました。そこで、第一線の経営者に学ぼうと思いまして、京セラの名誉会長でJALの前会長でもある稲盛和夫氏が塾長である「盛和塾」に入りました。入塾して6年目、盛和塾世界大会で、「経営体験発表会最優秀賞」を受賞しました。それで、一躍有名人になってしまいました。私が横浜で発表した時の参加者は3,400人ぐらいで、「病院経営体験」について発表しました。

 入塾した当初は、「流動比率」というものさえ知らず、「なんだそれ?」という感じでした。そんなレベルからスタートして、最後はフィロソフィにたどり着きました。経営哲学のようなものですね。医者はどうしても病院組織の頂点として君臨したがる。しかし、すべての従業員の上位にある指針として「フィロソフィ」を明確に打ち出すことによって、医師もそれに従う。組織がまとまって1つの方向を目指すようになるのです。「愛生館フィロソフィ」を作成してから、私自身も変わりましたし、組織も従業員も大きく変わったと思います。
 
 「盛和塾」に入る前は違いました。それまで、私が教えてもらった病院の生き残り策というのは「回復期リハビリをやれば収益が上がる」とか、「療養病床に重症患者さんをたくさん入院させればいい」といった内容が多く、「こっちの水は甘いぞ」ということだけだったんです。そこには経営のノウハウというものがほとんどなく、その時々の制度に合わせてどう動くかということでしかない。しかし、病院経営というものを突き詰めて考えていきますと、「人は何のために生きるのか」「われわれ医療者は患者さんのために何をすべきか」といった根源的な問題と向き合うことになります。「盛和塾」では、いかに儲けるかという話ではなく、そういう根源的なことをたくさん学びました。いわば「稲盛教」みたいなものでしょうか。稲盛教によってJALが再生したように、当院も急速に変わっていきました。

 現在の制度は看護師の配置で診療報酬が上がったり下がったりする仕組みですから、看護師が足りないのに高い点数を取ろうとする病院もあります。そういう小手先のことで生き延びようとしていますから、従業員の不満が溜まって内部告発があれば、瞬く間に崩れてしまいます。とかく医者というのは知識や技術を積み上げるのは非常に得意ですが、理事長や院長として経営者の立場になったとき、それまでの概念の変更をすることが難しく、とても不器用だと思います。医師に限らず、人間は誰しもそうかもしれません。自分の立ち位置が変わったとき、それまで培ってきた自分の考え方を大きく転換することは非常に難しい。しかしそれでも、自分の概念を変更する努力をしていかないと経営は難しいのではないでしょうか。

 一例を挙げましょう。「愛生館フィロソフィ」の冒頭には、「誰よりも早く笑顔であいさつをする」ということが書かれています。医者の場合、これが一番欠けているような気がします。誰よりも早く笑顔であいさつできるようになるまでに1年ぐらいかかりました。私たちはこれを「環境整備」と呼んでいます。フィロソフィが組織の隅々に浸透しますと、「あいつは嫌だからやらない」ということがなくなりますし、決められた時間にはピシッと集まるようになります。忘年会やコンパのやり方も変わりました。席はすべて指定席です。例えば、「AさんとBさんの人間関係が良くない」という場合には、AさんとBさんを隣同士の席にします。そのようにして、組織の活性化やコミュニケーション能力を向上させていきます。こうした関係づくりがベースにあるからこそ、理事長が「こっちに行こう」と言ったときに、みんなが一斉に進むことができます。当院の離職率は驚くほど少ないですし、一度辞めた人もまた戻ってきます。

 これからの慢性期医療を考える際に必要なことは、組織全体の進む道や考え方を一緒にして、みんなのベクトルを合わせることです。病院組織の最大の問題として、医者が君臨したがるという点があります。それはきっと一生懸命だからでしょう。医者が一生懸命になればなるほど、「俺が、俺が」と前に出ていく。しかし、それではだめです。組織全体が成長し、発展するためには、1人ひとりの人生をいかに考え、他人に対していかに接するかという姿勢や心が非常に重要であると思っています。
 

■ 若手医師へのメッセージ
 

 私が医学部に入ったちょうどその頃、インターン闘争が本格化しました。1964年の東京オリンピックの前年です。世の中がいかにあるべきか、人間とはいかにあるべきか、その中で医者はどうあるべきかという話を議論していて、私もインターン闘争の中に入っていきました。ところが、いわゆる第一級の闘士の方々から、私は一歩引いているんです。当時、一番よくしゃべっていたのは、東大とか京都府立医大とか、その辺りの活動家は本当によくしゃべるなあとつくづく感心しまして、「俺にはこういう才能はないなあ」と思いながら聴いていました。

 機動隊の人たちはデモ当初は警察官の制服で、私どもも白衣姿でデモをしていましたが、次第に変わっていきました。機動隊はヘルメットをかぶって盾を持ち、どんどん戦闘体制になっていきました。私どもも白衣を脱いで、ジャンパー姿で靴はスニーカー。運動がだんだん過激になっていきまして、「機動隊なんか殺しちゃったほうがいいんだ」と言う学生も出始めました。そうなってくると、私はちょっと付いていけない。インターン闘争から東大闘争へと発展し、安田講堂に立てこもる。学生の一部はそこに入り、一部は逃げる。私は東京医大でしたので、「東京医大でもストライキをやらないといけない」ということになりました。

 なぜか知りませんが、私はクラス委員のような役回りをさせられました。私の役目は、ノンポリと活動家との間の通訳です。活動家はできるだけたくさんの人をストライキに誘いたいので、授業をボイコットする場合には、ノンポリ学生にも一緒にボイコットしてもらわなきゃ困るわけです。さまざまな活動家が目指す方向と同一の行動をとってもらうために、活動家の意向を受け継いで、ノンポリ学生を説得する係でした。ストライキで授業がないから暇なはずなのですが、とても忙しい学生時代でした。

 しかし、社会に対して医学生に何ができるかというと、何もできないわけです。注射一本、まともに打てるわけでもないし、薬も投与できない。もちろん診察や診断はできない。そういう私の学生時代を振り返って、若い医学生に何かメッセージを送るとすれば、「学生時代はエネルギーを蓄積する時代である」ということでしょうか。私は普通に勉強もしましたが、そんなに深く勉強していません。私は学生時代に結婚しています。人生で一番勉強したのは、卒業してからじゃないでしょうか。本当によく勉強したことを覚えています。

 早朝、星が瞬いている間に自宅を出て、星が瞬いている頃に帰宅する毎日を過ごしました。夕方にたぬきうどんを大学病院の研究室に出前を取って、汚い研究室で、こそこそと食べていましたね。帰宅してから、ちょっと酒を飲んで寝たという日々でした。その頃、子どもが1人いましたが、日曜日もほとんど家にいなかったものですから、たまに家にいると半日ぐらい寄ってきませんでした。遠くからじーっと見ている。そして昼過ぎになると、ものすごい勢いで近づいてくる。そんな光景を懐かしく思い出します。

 医師という仕事は多くの場合、人間に接する仕事です。研究職は別かもしれませんが、人間に接する臨床医を目指すのであれば、自然科学と社会科学の両方の要素を意識する必要があると思います。若いうちはどうしても分子生物学的な自然科学に興味を持って、そちらの方向に傾きがちですが、それだけではなく、社会科学をベースにした医学にも目を向けてほしい。患者さんは全員が治るわけではありませんので、「自然科学だけではなく社会科学の勉強もしてください」と言いたい。医療の恩恵にあずかる患者さんが癒やされ、幸せになるためには治ることが第一ではありますが、それだけではないということです。心理学、倫理学、宗教、歴史、哲学など、幅広く学んでほしいと思います。

 私が若い頃にお付き合いした先生で、高橋晄正さんという方がいます。ちょうど東大闘争時代の東大医学部の講師で、「アリナミンは効かない」といった批判をしたので干された人です。紀伊國屋新書から「新しい医学への道」という本を出されまして、私はその影響を受けました。その本に書かれている根幹は、現代でも変わらないと思います。人間の身体には、未知な部分がたくさんある。現代医学はまだスタート台に立ったにすぎないと感じます。抗生物質によってかなりの感染症が治ってきたことは事実ですが、まだまだです。特に脳の研究に至っては、まだ始まったばかり。MRIなどで生きた状態の脳を観察できるようになったのはごくごく最近でしょう。若い先生方は、ぜひ謙虚な気持ちになって、人間の身体はまだまだ未知の暗黒大陸であるという意識を持ってもらいたいと思います。
 

■ 日本慢性期医療協会への期待
 

 現在、厚生労働省が進めようとしている「地域包括ケアシステム」において、中核をなすのが日本慢性期医療協会だろうと思っています。私は、会長の武久洋三先生をはじめ、役員の先生方、関係者の方々の活躍を大いに期待しています。私には武久先生のような才能は全くありませんので、あまりお手伝いできずにいますが、今後、ますます発展していくことを願っています。

 私自身にも、目標はいっぱいあります。趣味はアウトドアです。若い頃は、スキーを一生懸命にやりました。ゲレンデスキーに始まり、山を歩くようになりましてね、先日たまたまモンゴルに行くことになり、モンゴルで乗馬しましたら、想像以上に運動量の多いスポーツでした。これからは、ひょっとしたらアニマルセラピーならぬ「ホースセラピー」などもいいのではないかと思っています。協会の先生方の中には、いろいろなアイデアやご経験をお持ちの方が大勢いらっしゃいます。そうした方々の英知を結集して、良質な慢性期医療の実現に向けて取り組んでいけたらいいと思います。

 自分の人生を振り返って、いま思うことは、できる限り自然の中で生きていきたいということです。医学部に進んで医者になり、家内と結婚し、さまざまな苦労をして波乱に満ちていましたけれども、充実した人生でした。倒産の危機を盛和塾で乗り越え、フィロソフィを肝に銘じて今日まで来ました。自然の英知というのは、人間の浅はかな知恵をはるかに超えているのではないでしょうか。自然に戻るということは非常に難しいと思いますが、可能な範囲で自然に生きていきたいと思います。(聞き手・新井裕充)
 

【プロフィール】
 
◎ 職 歴
 
 昭和45年6月 東京医科大学外科教室入局
 昭和47年11月 東京医科大学外科教室助手
 昭和52年10月 東京医科大学外科教室派遣講師
 昭和53年7月  医療法人愛生館 小林記念病院勤務
 昭和55年11月 同法人病院院長就任
 平成2年5月  同法人理事長就任(院長兼任)
 平成21年4月 同法人病院院長退任
 平成22年3月 社会福祉法人愛生館福祉会理事長就任
 平成25年3月 同法人 理事長退任
 平成25年3月 同法人 会長就任
 
◎ 社会的活動歴
 
 昭和63年6月~
 平成9年4月  東海青年医会 代表幹事

 平成9年4月~ 日本医療法人協会常務理事

 平成10年7月~
 平成14年3月  愛知県医療法人協会 会長

 平成16年4月~ 日本慢性期医療協会常任理事

 平成19年1月~
 平成20年12月  碧南警察協議会会長
 
 平成24年4月~ 愛知県病院協会会長
 

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