【第24回】 慢性期医療リレーインタビュー 進藤晃氏

インタビュー 役員メッセージ

大久野病院院長・進藤晃先生

 「いったん我慢することが大切。考え方が違っていたとしても、まずは受け入れるという姿勢が必要」と話すのは、東京都西多摩郡の大久野病院院長で日本慢性期医療協会理事の進藤晃先生。父の病院を20代で継いだものの、改革を拒む職員らの猛反発に苦しみながら、ようやく黒字化にこぎ着けました。進藤先生は、「引き継いだものを土台にして、次のステップを考える。不要なものは捨てればいいし、足りないものは追加すればいい。ゼロから組み立てるのではなく、まずはすべて受け入れましょう」と言います。
 

■ 医師を目指した動機
 

 祖父の代から医師の家系で、私は3代目です。生まれた時から「医者になれ」ということを決められていましたので、別の道を考えることはありませんでした。内心、「自分は医者に向いていないな」と思っていましたが、高校3年生の時に父が亡くなり、「一族が路頭に迷ってしまう」と思いました。「やるしかない、これは何とかしなきゃいけない」と決意しました。

 祖父は外科医で救急病院を運営しており、父は慢性期の病院を持っていましたので、2つの病院がありました。父が亡くなったので、急性期病院を閉鎖して、慢性期の病院を残しました。その病院を叔父が継ぎました。

 幼いころから祖父や父の姿を見て、「患者さんたちに愛されている」と感じていました。地域の方々からの信頼がとても厚かったと思います。「やはり医者というのは、みんなから愛されて信頼される職業なんだ」と思っていましたので、これも医師を目指した動機だと思います。父らは病院運営だけではなく、警察医など地域住民の安全や健康に関わる仕事もしていましたので、官公庁からの信頼もありました。医師は地域に関わる素晴らしい仕事だと思います。

 医学部に入った後は、内科医か小児科医になろうか迷いました。小児科のNICU(新生児集中治療室)などを見て、「これはすごくやりがいがあるな」と思ったのですが、初期研修では埼玉医大の内科のローテーションに入りました。家業が頭にあったからです。高齢者医療の病院ですから、小児科医では跡を継げません。そのため、内科の中で「決着が早い分野がいい」と思った循環器内科を選びました。
 

■ 慢性期医療に携わって思うこと
 

 大学病院で心筋梗塞の患者さんらを診て4年経ったころ、実家から「経営がどうにもならん。帰ってこい」という連絡が来ました。それで平成4年に戻りました。父が亡くなった後、叔父がその病院を経営していましたが、積極的に経営を改善するタイプの人ではなく、患者さんの満足度が低下しているように見えました。
 
 後ほど詳しく述べますが、いろいろなことがあって、ようやく叔父の病院を引き継ぐことになりました。院長になってまず考えたのはリハビリです。当時、寝たきりの患者さんが多かったのですが、リハビリを全くやっていませんでした。そこで、看護師さんに協力してもらって、少しずつリハビリを強化したところ、患者さんの状態がどんどん回復していきました。地域での評判も少しずつ上がっていきまして、4年ぐらい経った平成12年にリハビリの技師さんが1人来てくれました。その後、今日までの12年間はリハビリの専門病院を目指してひたすら走り続けてきました。

 当時、療養環境の見直しも重点課題でした。私が院長に就任した平成8年ごろは、ぎゅうぎゅう詰めの8人部屋とか、暗くて狭い6人部屋で、間仕切りがないような部屋でした。療養環境が非常に悪かったので、「とにかく建て直さないと無理だ、増改築しないといけない」と思い、運良く平成8、9、10年と黒字でしたので、改築を検討しました。
 
 ところが、顧問の会計士さんは「こんなスピードで建て直すのは無理だ」と言う。さらに、「建て直しは個人病院のままではできない」とのアドバイスを受けました。そこで、平成11年に医療法人化して、平成12年に自治体の「医療施設近代化施設整備事業」の補助金を受け、平成14年に新病院が完成しました。ちょうど10年経ったところです。
 
 しかし、計画が安易で粗末でした。資金繰りが大変で、平成15、16年ごろは倒産するのではないかと思うほど赤字になりました。平成14年から、小泉改革で医療費がどんどん抑えられ、平成17年に大赤字になっていろいろな銀行に融資を頼みましたが、全く貸してもらえませんでした。そこで、とにかく費用の全面的な見直しを徹底して、平成18、19年ごろにはなんとか黒字が出るようになりました。現在は比較的安定しています。

 ただ、今日までの道のりは、決して平坦なものではありませんでした。実は、叔父の病院を私が継ぐ際、裁判沙汰になりました。その後、病院を継いで20年になりますが、本当にもったいない20年だったと悔やんでいます。父の代からきちんとした形で病院を引き継いでいれば、こんな苦労はしなかった。この20年間でもっといろいろなことができたはずだと思っています。この点について、少し長くなりますが、お話ししたいと思います。

 私が戻ったころの当院は、先述したようにひどい状態でした。院長である叔父が古くからのやり方を全く変えないまま、父の死後、10数年の月日が流れていました。その間に診療報酬や医療制度も大きく変わっていましたが、時代の変化に対応せず、寝たきりの高齢患者ばかりが入院している典型的な「老人病院」でした。患者さんも職員も集まらず、「これからどうすればいいの?」という深刻な経営難に陥っていました。そんなところへ、まだ20代後半の私が、一勤務医として経営改善のために乗り込んだわけですが、当然のごとく波風が立ちました。

 私はとにかく病院の経営を安定させて、存続させることが急務だと考えました。地域の特別養護老人ホームなどでは、急変した患者さんの受け入れ先に困っていましたので、ホームの肺炎患者さんらを積極的に受け入れるようにしました。それまではすべて医師が受け入れを断っていました。当時、170床ありましたが、全く埋まっていない状況でしたので、私が地域の老人ホームなどを回って、「これからは受け入れます」と説明し、懸命にベッドを埋めました。

 行き場のない患者さんたちがすぐに集まってきました。しかし、軽症の患者さんは治療したらすぐに自宅に帰りますので、ベッドが空く。そしてまた埋める。その繰り返しです。寝たきりの患者さんばかりの病棟が急に慌ただしくなってきました。今まで全く受け入れていなかったのに、急に入院患者さんが増えるわけですから、看護師さんたちの反発はものすごいものがありました。

 私は「ベッドが埋まらないと皆さんのお給料を払えませんので」と必死に説得したのですが、夜間の受け入れも増えますので、「なぜ、今のままではいけないのですか?」と不満が出ました。看護師らは、「今までこうしてやってきたんだから、このままでいいじゃないですか」と言うのです。何か新しいことをやろうとすると、「なぜ変える必要があるんですか?」と言われる日々が続きました。現状を変えないと生きていけないのですが、その思いがなかなか伝わらない。そこで、私はとにかくひたすら職員の不満を聴きました。「不満を聴く会議」です。

 当時、私はまだ28歳でしたから、当院で2番目に若かった。私の下には20歳の栄養士が1人いて、その次に私、あとは全員年上です。なかなか思うように改革は進みません。叔父はいずれ私に病院を譲るつもりでいたのですが、叔父を取り巻く老練の事務職員らの抵抗はすごかった。叔父がいなくなると自分たちの権益がなくなってしまうからです。今までぬるま湯の中でのんびりやっていた所に、改革の旗を掲げた若手が来てしまったので、猛烈な勢いで排除しようとする。私は彼らに追い出されそうになりました。

 病院の土地や建物は母が所有していましたが、叔父に賃貸していましたので、法的な問題が絡んでいました。叔父を追い出そうとしても、簡単にはいかない。最後は裁判で決着しました。叔父のほか、その取り巻きの事務員らにも辞めていただきましたが、一件落着とはいきませんでした。彼らは退職する直前に、重要書類をすべて破棄してしまったのです。裁判できちんと保全しておけばよかったのですが、そこまで気が回らず、「今日でさようなら」と言われた時には、何も書類が残っていない状態でした。

 まず、誰にいくら給料を払っているのかが分からないので、全職員に給与明細を見せてもらって、「あなたはいくらもらっていましたか? じゃあ、来月もこのぐらいでいい?」という状況でした。幸いにも医事課の職員は残ってくれたからよかったものの、やはり事務の力というのは大変なものです。総務、人事、経理関連の部署が果たす役割というのは、経営上すごく大きいと思います。

 引き継ぎというのはすごい難しいと思います。父の病院をそのまま受け継ぐ先生方もいらっしゃいますが、それは非常にうらやましいことです。ただ、内情を聴きますと、「親父は早く出て行け」とか、「息子が戻ってこねえ」とか、どこもいろいろ大変みたいですが、そこはうまくやって、上手に承継したほうがいいというのが失敗を経験した者の感想ですね(笑)。

 やはり、いったん我慢することが大切だと思います。考え方が違っていたとしても、まずは受け入れるという姿勢が必要です。何もかもすべて受け入れた上で、自分たちが何をしたいのかを考える。引き継いだものを土台にして、次のステップを考える。不要なものは捨てればいいし、足りないものは追加すればいい。ゼロから組み立てるのではなく、「まずはすべて受け入れましょう」と言いたい。

 しかし、当時の私はまだ若かったので、この病院で長く続いていた考え方やしきたりを全部ぶっ壊しちゃって、全く引き継がなかった。台がない上に立ってしまった。そんなに過激な性格ではないのですが、「このままでは潰れる」という危機感がありましたので、やらざるを得なかった。目の前にいる患者さんのために病院を改革すると決めたんですから、もうしょうがないじゃないですか。後には引けません。でも、やはり一気にはできません。一気にやるべきではないと思います。
 

■ これからの慢性期医療はどうあるべきか
 

 地域医療で中心的な役割を担えたらいいと思っています。患者さんはまず急性期病院の先生に診てもらいたいと思うのでしょうが、臓器別医療が中心ですので、複数の疾患を抱える高齢者を総合的に診てもらえません。例えば、当院の在宅患者さんで、体中がむくんじゃっている慢性心不全の人がいます。90歳です。この患者さんは恐らく、急性期病院に送ったら点滴漬けで、利尿剤をたくさん打つでしょう。お水を抜くために、毎日のように除水をして、たぶん間もなく死んでしまうだろうと思います。

 当院では、在宅でゆっくり利尿剤を1錠ずつ飲ませて、半月経ったところです。むくみが少し引いてきて、食欲が出ています。元気になってきています。ゆっくりやっていけば高齢者でも少しずつよくなります。ですから、高齢者の医療は急性期病院の臓器別診療でやるよりも、われわれ慢性期病院が診たほうがいいと思います。そういう意味で、急性期病院と慢性期病院との連携をうまく組み合わせながら、慢性期医療の地位を確立したいと思います。「早く送ってくれればよかったのに」という関係ではなく、急性期病院と対等にうまくやっていきたいと思っています。

 私は、東京・西多摩地域の病院会で会長を務めています。急性期病院、慢性期病院、精神科病院など約30病院が参加しています。私はまず、その中で慢性期医療の病院の地位が向上するようにしたいと思っています。今年から、30病院が一堂に会する会合を開きます。互いに自院を紹介し、連携を深めるために開きます。第1回は11月30日を予定しています。

 ただ、この会合を2年前に提案した時は大反対されて実現しませんでした。自院の情報を公開するわけですから、「絶対に嫌だ」と言われました。そこで私は、「分かりました、やめます」とすぐに引き下がりました。しかし、今回は会場も演者もすべて押さえた上で、「11月30日に開催しますので、よろしくお願いいたします」と告知しました。「開催したいと思いますが、どうでしょうか」ではなく、「開催しますので、皆さん参加してください」と伝えました(笑)。

 地域の病院同士が連携していくのはすごく大事ですが、非常に大変なことだと思います。「おたくの病院はそんなことをやってるんだ、じゃあ、こういう患者さんは受け取ってくれるの?」という具体的な情報のやり取りが可能になる反面、自院の弱みも知られてしまいます。ですから、そういう具体的な連携が進んでいないのが現状です。しかしこれからは、自院が地域でどういう病院を目指すのか、どういう患者さんを受け入れたいのかを他院に対して宣言すべきだと思います。私は、そういう連携の中で、慢性期医療の地位をアップさせ、地域連携における地位を確立していきたいと思っています。

 これからの慢性期医療を考えるとき、診療報酬体系についても改善する必要があると思っています。現在のように、外形基準だけで評価する仕組みを変えるべきです。「看護師さんが何人いるから入院料はいくら」という評価方法では、「どんな看護師でもいいんですか」ということになりかねません。むしろ看護の質や診療内容、できれば診療プロセスの部分を重視してもらいたいと思います。確かに、「どういう形で、どう評価したらいいのか」という非常に難しい問題を含みますが、もう少し実質的な評価に切り替えていく時期にあると感じています。

 例えば、一定のプロセスガイドラインを基準にして、「そのプロセスがしっかりできている」ということが確認できれば診療報酬で評価するという方法もあっていいと思います。さらに踏み込みますと、「そのプロセスを踏んでいたのに事故になったとしたらやむを得ない」という考え方も今後はあり得ると思います。
 

■ 若手医師へのメッセージ
 

 「若手医師へ」と言われても、私はまだそんな年ではありません(笑)。ただ、私が医師になったばかりのころを思い出しながら申しますと、「自分のやりたいことに熱中していい」と思います。

 それから、今後は高齢者医療が中心になってきますので、患者さんの全体像をつかみながら診ていく医療を学んでほしいと思います。「臓器だけを診ていてもよく分からないよ」という辺りを学んでほしい。そうした医療を追求していくと、その人の生活を見ていかないと改善しないことが分かると思います。患者さんの生活まで、さらに地域まで診ることのできるお医者さんになってほしいと思います。
 

■ 日本慢性期医療協会への期待
 

 私は協会の役員になってまだ2年半ですが、アクティビティが非常に高いと感じています。皆さん、とても活動的です。やる気を持って参加している役員が非常に多く、とても一生懸命やっていらっしゃるので、少しでも力になりたいと思って参加しています。

 協会の大きな方向性は武久洋三会長のお考えに従っています。会長の着眼点がとても鋭いと思います。われわれの発想を超えていることが多々ありますので、これからも会長のご指示に従いながら、協会業務の一部を担えたらいいと思っています。私は現在、「リハビリテーション委員会」と「診療の質委員会」に参加しています。

 このうち「診療の質委員会」では、医療以外の領域における考え方を持ち込んで、慢性期医療の分野とうまく融合できたらいいと思っています。私は、「医療の質・安全学会」や「日本品質管理学会」など他の研究会にも参加しています。「日本品質管理学会」は工学系の先生が中心で、慢性期医療の分野で議論されている「質の評価」と内容が少し違います。

 「質の評価」について工学系の先生方は、「0か1か」「イエスかノーか」という、コンピュータープログラムのようなデジタル的発想です。イエスならばこっち、ノーならこっち、という考え方をベースに評価しますが、慢性期医療協会で論じている「質の評価」はアウトカム評価が中心です。「こんな病院だったらいいよね」という着地点が最初にあって、それを満たす要件を細かく設定していくアプローチです。確かにそういう考え方もあっていいと思いますが、もう少しデジタルな思考を含める必要もあると思います。

 もう少し補足しますと、慢性期医療協会で行っている質の評価は、PDCAサイクルがないことが課題だと思います。「肺炎を起こさない病院のほうがいい」、「尿路感染症は起きないほうがいい」、「デスカンファレンスをやっている病院のほうがいい」という評価についてはその通りだと思いますが、それにプラスアルファして、さらに改善していくためのPDCAサイクルがありません。チェックはしているのですが、プランを立てて実行していく「Plan-Do」になっていませんので、どのようなアクションをすれば改善するのか、私も今後いろいろ検討していきたいと思います。外部の考え方も採り入れながら、日本慢性期医療協会がますます活性化していけばいいと思っています。(聞き手・新井裕充)
 

【プロフィール】
 平成元年3月 埼玉医科大学卒業
 平成元年5月 第83回医師国家試験合格
 平成4年8月 埼玉医科大学付属病院 循環器内科 退職
 平成4年9月 大久野病院 入職
 平成8年7月 大久野病院 開設 管理者就任
 平成11年8月 医療法人財団・利定会 理事長就任
 

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