【第13回】 慢性期医療リレーインタビュー 加藤正彦氏

インタビュー

【候補1】加藤先生

 「外来診察で『はい、背中見せて』とは言いません。私が患者さんの背中側に回り込みます」─。京大法学部を卒業してテレビ局に入社した後、アパレルやイベント業などを経て50歳で医師を志し、61歳で医師免許を取得した経歴を持つ春木病院の院長・加藤正彦先生にお話を伺いました。お客さんを喜ばせる業界を歩んでこられた加藤先生は、「医療は究極のサービス業」と言います。
 

■ 医師を目指した動機
 
 私の経歴は、普通の医師とは少し違います。50歳で医師を志し、医師になったのは61歳です。それまで医療とは全く別の分野を歩んできましたので、まずこの点についてお話ししたいと思います。少し長くなりますが、医療に対する現在の考え方とも通じる面がありますので、お付き合いください。

 私は京都大学法学部を卒業し、最初の就職先は大阪のテレビ局でした。入社後、5年ぐらい経ったころ、メンズファッション全般を扱うアパレル会社を起業しました。いわば「二足のわらじ」です。テレビ局での勤務は、深夜に仕事をして昼間に時間が空くことがよくありましので、テレビ局の近くにお店を出して、そこで洋服を販売しました。

 当時の若者は、「若草山に登るときもスーツだ」なんて言って、カジュアルな服装という発想はなく、レジャーでもスーツを着ていました。そうした中、VANジャケットの石津健介社長が、TPOに合わせたカジュアルな服装を若者に対して啓蒙的に展開し、高校生から大学生の間に瞬く間に広がりました。当時、百貨店でVANジャケットの店舗がバーゲンをやったら、ものすごい行列ができました。アメリカ東海岸の名門大学グループ「アイビーリーグ」にちなんで「アイビールック」などと呼ばれましたが、「まるで不良が着る服装だ」とも言われました。

 しかし、その「アイビー世代」たちが社会人になったときに、「おしゃれの洗礼」を受けた彼らが着るような服が売っていませんでしたので、石津社長は「Kent」という、少しグレードの高い大人のブランドを売り出しました。1963年ごろだったと思います。私は、「これはヒットする!」と直感的に思い、大阪のビジネス街に「Kentブランド」を扱うお店を出しました。

 予想が外れて、最初は大苦戦でした。店で売られていたボタンダウンシャツや色のついたストライプスーツは、当時の日本では受け入れられなかったのです。マスコミも見向きもしてくれませんでした。しかし、後に「アイビー世代」が社会人になり、「Kentブランド」が着られるようになり始め、私の店の商品も売れ出しました。

 現在、私は春木病院の院長を務めておりますが、当時の経験が現在に生かされていると思います。「従来の感覚や固定観念というものを打破したい」という冒険心みたいなものが体に染みついているのです。私のお店は最初の1~2年こそ大苦戦でしたが、「必ず成功する」という確信を持っていました。「年齢に応じたブラントがある」と考えていましたし、実際にそういう結果になりました。その後、私はテレビ局を退社し、本格的に洋服販売の経営に集中しました。

 しかし、1978年にVANジャケットは会社更生法の適用を申請し、事実上倒産しました。ファッション多様化の時代を迎え、大量生産して同じ服を売ればいい時代ではなかったのでしょう。私の店もKentの売り上げが落ちましたので、VANジャケットの本社に対して進言しました。「潮目が変わりました。ファッション多様化に適応した商品を作るべきです」とね。しかし、これを聞き入れてもらえませんでした。私の店も経営が苦しくなりましたので、店舗を実弟に譲り、新たな事業を興しました。世界的なパントマイマーであるマルセル・マルソーさんの公演を斡旋し、京都四条南座でイベントを企画したこともあります。

 例えば、こんなことがありました。南座の支配人から「若い人が南座に来ない」という相談を受けましたので、「大晦日の一晩、会場を貸してください」と願い出ました。南座というのは、使用料が高く、一晩に3つぐらい興業しないと採算が合いません。しかし、当時の大晦日と言えば、NHKの紅白歌合戦です。どこも午後6時半にはお店を閉め、夜7時になれば街中を歩いている人はほとんどいません。通りはガラガラです。ですから、南座の支配人は、「大晦日に南座に足を運ぶ人はいるのか?」と心配しましたが、私はこう言いました。「紅白歌合戦の視聴率は80%ならば、紅白を観ていない20%を対象にすればいい」と。

 では、紅白歌合戦を観ない20%を呼び込むにはどんなタレントを呼んだらいいか? 私が提案したのは、山崎ハコさんのコンサートです。大当たりでした。独りぼっちで寂しく大晦日を迎える若者たちがドッと押し寄せました。

 第2部はどうしたか。今度はロックですよ(笑)。紅白歌合戦が終わって除夜の鐘が鳴るころの四条は、大勢の人々でごった返しています。そこで、第1部のお客さんとは全く別の人々を対象にした「除夜の鐘コンサート」です。当時、大晦日の夜にコンサートをやるということは、私の知る限りでは皆無だったと思います。しかし、その後は有名なアーティストらが大晦日にコンサートをやるようになりました。当時、「京都四条南座」の付近は、舞妓さんが通るような古典的な場所です。そんな所で、若者が集まるロックコンサートを開催するなんて、かなり大胆なことだったと思います。

 イベントを企画することは大変な事なんですね。投資が先に来る。最初にお金を出して会場を借りて、後で資金を回収するという自転車操業です。支払いが迫る月末になると胸が痛くなる日々が続きました。ある時、ついに倒れて救急車で搬送されました。狭心症でした。医師から「仕事のストレスが原因なので、そんな仕事はやめなさい」とまで言われました。私の仕事仲間にも、私と同じように身体を壊している人が多くいました。そこで、自分に何かできないか、彼らの苦しみを救ってあげることはできないものかと考えるようになりました。

 そこで私は、臨床心理士と中小企業診断士の資格を取ろうと思いました。彼らの経営や健康面をサポートしてあげるような道を模索し始めたのです。そんなある時、医師らとゴルフをした際に「臨床心理士になろうと思っている」と伝えましたところ、医師から「それなら、『普通免許』を取ればいいのに」と言われました。当時、自動車の普通免許があれば750ccの大型自動二輪車も運転できました。医師免許はいわば「普通免許」のようなもので、医療分野で最高峰の資格です。「医師免許を取れば臨床心理士の業務もできる」と思いまして、医者になろうと決心しました。その時、既に50歳になっていました。

 ところが、医学部受験ということになると受験の準備が大変です。私が高校生のころに習った当時の生物が使えません。学問的に解明された事象も増え、詰め込む知識も相当多いのです。試験制度もかなり変わっていましたので、予備校に通うことにしました。しかし、センター試験では、国立大の医学部受験に必要なボーダーラインを超えることができませんでしたので、私財をなげうって私大の医学部に入りました。5年間の受験勉強を経て医学部に入学できたのは55歳です。私の場合、社会人入学だったので、6年間ではなく5年間通学しまして、医師国家試験に合格したのは61歳の時でした。60歳を超えて医師になったのは日本で私が初めてだったそうで、当時はマスコミにも取り上げられました。入学した医学部に7歳下の女性がいまして、その方から「加藤さんが入学してこられたので、私が2番目になってしまいました」と言われたことを思い出します(笑)。
 

■ 慢性期医療に携わって思うこと

 医学部に入ってから、老年医学を専門にしたいと考えるようになり、高齢者医学の大学院に進学しました。博士課程を修了し、非常勤として勤めたのが、当時「介護力強化病院」と言われた500床の病院です。それから一貫して慢性期医療に携わってきました。

 医師になって間もないころ、「俺はこんなことをするために医師になったのか!」と思うような事がありました。1998年、医師として働き始めて7か月目のころです。介護保険制度の導入を約2年後に控えていました。「介護力強化病院」から「療養型病床群」に転換する場合には、施設を建て替えなければなりません。現在入院している患者さんたちには出て行ってもらう必要がありました。院長としては、これは非常に頭の痛いことです。勤務先の病院の院長が突然退職してしまいました。

 次の院長がなかなか見つからない中、年輩の私に院長就任の要請が理事長からありました。医師としてはまだ新米なのに、なぜか事務長や看護部長からも懇願されました。悩みましたが、とうとう断りきれず、院長に就任したのです。私に矛先が向いた理由はすぐに分かりました。

 介護保険制度では、要介護度が高く、重度の利用者がたくさん入らないと採算が取れません。そのため、認定で「要支援」になってしまった利用者には退院していただく必要がありました。介護保険報酬での収支をシミュレーションしたところ、医療保険で継続するよりも介護保険報酬を受け取る方が利益が出るという結果が出ましたので、500床を400床の介護療養型医療施設にするという経営方針になりました。

 介護認定を受けた患者500人のうち8割は要介護ではなかったので、退院をしていただかなければならなかった。しかし、患者さんはみな「終の棲家」として、ずっと入院していられると思っていました。そんな患者さんやご家族に頭を下げながら、「制度が変わりましたので……」と説明し、退院してもらうのが院長の仕事でした。ご家族から怒鳴られたりしながら、説得に2年を費やしました。
 
 慢性期医療に携わって思うこと。私には、一つの結論があります。医療もサービスです。お客さん1人ひとりと対面し、商品を気に入ってもらって購入していただくのと全く同じです。患者さんに喜んでいただき、嬉しそうな表情で帰ってもらったら、こちらも満足です。

 医療は、究極のサービス業ではないでしょうか。1人ひとりに困っていることがあったら助け、悩みを聞いてあげて、少しでも楽になってもらえば、これは究極のサービス業でしょう。結局、私はサービス業が好きなんです。医療は自分に向いていると思います。サービス業として生きてきた延長線上に、医師という職業がありました。
 

■ これからの慢性期医療はどうあるべきか

 病院は病院の務めを果たす必要があると考えます。介護療養型の医療施設の中には、「病院」を名乗りながら介護を提供しているような施設が半分ぐらいあると思います。「病院」である以上、病気を治すということが基本です。慢性期医療協会がモットーとする「良質な慢性期医療がなければ日本の医療は成り立たない」とは、まさにそういう意味でしょう。

 介護保険法に基づく「指定介護療養型医療施設の人員、設備及び運営に関する基準」には、こういう規定があります。
 「指定介護療養型医療施設の医師は、適時、療養の必要性を判断し、医学的に入院の必要性がないと判断した場合には、患者に対し、退院を指示しなければならない」(第8条第5項)。

 すなわち介護療養型医療施設は、介護保険法で定める施設系サービスの中でも、治療して退院するということを期待されているはずです。それなのに、介護施設の中で高い報酬ですから、患者さんを長く入院させておけば報酬を増やすことさえ可能になってしまいます。当協会にはそのような病院はないと思っていますが、残念ながらそういった病院もありました。自院の機能を放棄し、患者さんをずっと入院させて儲けに走ってしまった。そのため厚生労働省は、介護療養型病床を廃止するという方向に舵を切ってしまったとも考えられます。われわれ医療者側も、制度を悪用して甘えていたのではないかと思うのです。

 私が現在の病院に入る以前に武久洋三会長と出会い、会長の病院を見学する機会を得ました。大変驚きました。点滴をしている患者、気管切開をしている患者、重症の患者が多くいて、しっかり治療をしていたのです。正直なところ、「これで利益は出るのだろうか」と思ってしまうほどでした。と同時に、「慢性期医療というのは、こういうものである」と、「きちんと治療して、病院は病院の機能をきちんと果たすべき」ということを会長から学びました。

 近年、急性期病院の平均在院日数の短縮化が進んでいます。そうした中で、われわれのような慢性期病院が、急性期の後方病院として受け入れなければ急性期病院のベッドが空かないのではないでしょうか。武久会長の折々のお話にもあるように、今や慢性期医療こそが中核であると思っています。

 急性期病院はできるだけ早期に治療して、次から次へと患者を診なければなりません。そこからが私たちの出番です。患者さんを早く退院できるようにして、住み慣れた地域に早く戻してあげる。在宅医療では、開業医らと慢性期病院が連携する。今後の高齢社会を考えたとき、患者さんを総合的に診てあげられるのは、慢性期病院ではないかと考えています。

 慢性期病院は、地域に密接に関わり、地域に根差した医療を提供しています。在宅に復帰した後、患者さんが暮らす住宅の改修やリハビリ、家族関係にまで深く関わっています。患者さんの社会復帰を目指し、複眼的に患者さんを見ていくのが私たちの役割だと思っています。まだまだ成長の段階にありますが、地域住民に一番密接に関わっている存在になること、これが慢性期医療の本質だと思っています。

 当院では、地域住民向けに健康講座などを開催しています。最初は5人ぐらい集まりませんでしたが、現在では50人ぐらいにまで増えました。健康な人でもいい。足を運んでくれて、医療や健康への理解を深めてくだされば、私どもの役目は果たせたと思っています。

 これからの慢性期医療は地域に根差し、地域の皆様の健康増進などに貢献できる病院を目指していくことが必要です。病院は、病気を治すだけでなく、病気の予防に役に立つことを健康な方々に広めていくことも必要だと思います。
 

■ 若手医師へのメッセージ

 「医療はサービス業である」ということを認識すべきです。「患者さんの目線になる」ということが大事です。医学部での教育にこのような視点はあるでしょうか。いつの間にか、医師は「上から目線」になってしまっているではないでしょうか。ぜひ、「医療はサービス業である」ということは忘れないでほしいと思います。

 私は毎朝病棟を回り、患者さんが寝ているベッドと同じ目線になって、「おはようございます」と声を掛けています。それは決して馴れ馴れしい口調などであってはなりません。患者さんは皆苦しんでおられます。患者さんと同じ目線になるということに、さまざまな事が含まれています。そうしたことも若手医師に考えてもらえたらいいなと思います。
 
 人は千差万別で個性があります。医療サービスに携わる者は、相手の個性に合わせることが大切です。言葉遣いも変えるべきでしょう。私は、外来診察で「はい、背中見せて」とは言いません。私が患者さんの背中側に回り込みます。他のサービス業であれば、お客様に対して「回って」という指示は出さないと思います。それと同じことです。回る椅子が危ないという意味もあります。浅く腰をかけた高齢者らは、椅子を回転することによって滑り落ちることもありますから、医師が患者さんの背中側に回った方がいいと思います。

 若いうちは、日々研さんです。医療技術を高めるのは当たり前のこととして、若い時はいろいろな事を経験して、幅広く知識を付けていただきたいと思います。読書、音楽、芝居を観るなど、何でもいいのです。それが多様な人間をみる目の肥やしになります。

 忙しい中で大変だと思いますが、誰にも負けない医療技術を持つこと以外にも、幅広い知識を持ってほしい。それは、診察でも非常に役に立ちます。人間は、限られた人世の中でそう多くの経験ができるわけではありませんから、追体験として他人の体験を自分の体験としてとらえることで、患者さんを診る時に役に立つと思います。
 

■ 日本慢性期医療協会への期待

 厚生労働省が目指す2025年の医療提供体制を読み解くと、中核を担うのは慢性期医療だと考えます。日本医療の再構成は、日本慢性期医療協会を中心とした構築しかないと思います。

 今後の慢性期医療を考える上での大きな柱は、武久会長が主張する「良質な慢性期医療がなければ日本の医療は成り立たない」ということです。その志を共有する会員病院をもっと増やし、25周年を迎える時には2000会員ぐらいになればいいと期待しています。

 そのためには、慢性期医療を担う病院が地域医療の中核になるというメッセージを今後も発信し続けていってほしいと思います。日本の医療・介護の再編を主導できるのは慢性期医療協会しかないと思っています。(聞き手・新井裕充)
 

【プロフィール】

昭和34年 京都大学法学部卒業、(株)よみうりテレビ放送入社
昭和40年 (株)ケントハウス設立
昭和44年 (株)よみうりテレビ放送退社
昭和61年 (株)ケントハウス退社
昭和50年~ 企画会社を設立、マルセル・マルソー
     フランス国立民衆劇場 リオン交響楽団等の興行も行う。
平成4年 金沢医科大学編入学
平成9年 同校卒業、医師免許取得
平成10年 卯辰山記念病院院長
平成15年 加賀温泉病院院長
平成19年 現職
 

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