【第7回】 慢性期医療リレーインタビュー 木田雅彦氏

インタビュー

寿光会病院院長・木田雅彦先生

 東日本大震災から1年が経過、被災地福島の医療を支える寿光会病院院長の木田雅彦氏は、「患者さんや患者さんのご家族が希望されるならば、その思いに対して精一杯応えてあげることが医療の原点ではないか。慢性期医療は医療難民を救う医療として必要な医療だ」と話します。
 

■ 東日本大震災から1年を経過して
 

 ともかくも大変な震災でしたから、1年を経て思いを巡らすことが多々あります。復興は著しく遅れておりますし、同時に「人の心」が複雑に渦巻いているように思われます。福島県の場合は震災と津波に加え、原子力発電所の事故という大きな課題を抱えています。いまだ住民の生活に支障をきたしている状態です。福島県に住んでいて特に大きな問題と思うのは、被曝問題と「風評被害」です。

 例えば、リンゴなどの農作物ですね。福島というのは宣伝が得意でないせいか、リンゴと言えば青森や岩手、長野などがよく挙げられますが、実は福島でもリンゴがたくさん採れるんです。おいしいリンゴが一杯あります。そのほか、モモ、サクランボ、ナシなどもたくさん採れます。全国第1位ではありませんが、2番目、3番目ぐらいの収穫量です。

 しかし、放射能を浴びたということで、送り返してくる人がいるそうです。食べずに捨てたというならまだ理解できますが、わざわざ「放射性廃棄物は捨てられません」と言って送り返してくるのだそうです。「放射性廃棄物」って言われてしまうとね……。作物を一生懸命に育てた農家の方々の心はすごく傷つきますよね。「人の心」って言うのでしょうか、思いやりが欠けているようで非常に寂しく感じます。「人間というのは悲しいな」って思ってしまいます。これは現代の医療や介護、福祉などが抱えるさまざまな問題にも通じるものがあるように思われてなりません。

 原子力のエネルギー利用を推進したのは国策です。電気需要が大きくなって、電力の恩恵を受けたのも国民です。ですから、原発被害の問題は大所高所からみんなで議論して考えていく必要があると思います。「誰が悪いのか」という議論ばかりでは非常に寂しい。被害者の救済も何が本当に適切なのかよくよく考える必要があるのではないでしょうか。最近では、「働かないほうが得だ」と考える被災者もいるとのことで、少なからず違和感を覚えます。
 

■ 慢性期医療に携わって思うこと
 

 当院は福島市内の小さな病院です。重症の難病や身体障害の方、人工呼吸器を付けている方などが多く入院しています。それから、入院透析の方もおられます。いわば末期の方々ですね。そのような慢性期医療というのは、しばしば「退院できる患者を長期に入院させてお金を儲けているのではないか」と誤解されがちです。しかし、そうではないということを少しお話ししたいと思います。

 現在は、医療技術の進歩が急速です。しかし実際には、その進歩によって、すべての患者さんが成功裡に助かるわけではありません。よかれと思って行ったことが、予期しない結果になってしまうことが多々あります。神様ではなく人間のやることですから、仕方のないことだと思うのです。ただ、その「仕方のない状況」に陥った人たちが、「高度医療機関ではもうやることがありませんから自宅にお帰りください」と言われてしまうのです。

 在宅用の人工呼吸器もあります、在宅透析もできますと、医療技術がどんどんと進歩してきたことは好ましいのですが、在宅患者さんの面倒はいったい誰がみるのでしょうか? ここを忘れているように思うのです。いまだ面倒をみる側のことを十分に議論しないまま、「在宅」の言葉が独り歩きしていると私は思うのです。

 高度医療の結果、一命は取り留めたものの「仕方のない状況」に陥った人たちの行き場がないのです。そのような患者さんの多くは、機械につながれていますから、費用が掛かりますよね。そうすると、ある人たちは、「無駄な医療でしょ」って言うんですよ。じゃあ、それを「無駄な医療」とするなら、「最初から手を出さなければよかった」ということになるような気がしませんか? 「できることなら助けたい」という善良な気持ちで臨んだ結果、成功した場合はいいが、失敗した場合はどうするのか。

 延命治療などの問題を議論する際に、命そのものではなく最初から費用の問題を念頭に置いて考えるから、「無駄な治療は差し控えるべき」という方向に傾くような気がします。確かに費用の問題は重要です。しかし、最初から費用の面を重視するなら、逆説的になりますが、「天命に従うなら、そもそも高度医療は必要ないのでは」という意見も当然考えられるわけです。ともかくも、命を場合分けする医療が拙速に標準化されることを私は危惧しているのです。

 まだまだ田舎などでは、「歳を取ったからもう死んでいいよ」という感覚ではなく、「死を強く惜しむ」という気持ちが残っていると思います。例えば、切腹というのは「死をもって償う」という意味で、死の重さを最大のものとして捉えていたと思います。死刑もそうでしょう。ところが、「裕福ではないから死ぬのも仕方がない」みたいな発想が生まれては大問題です。「死」というものの存在が軽いものになってしまったら、「人が生きる」ことの意味もまた軽くなってしまうと思うのです。

 もう少しお話しますと、延命治療や終末期医療には「無駄な医療が多い」と評価を下し、高度先進医療技術や遺伝子の研究などは積極的に推進する。それらに掛かる研究費は決して安くはありません。しかも町中の患者さんの多くどころか、現時点では少数の方しかそれらの恩恵に浴せてはいないのです。私は、それらの研究が無駄だと言っているのではありません。進歩の過程で重要であると理解しています。ただ、どこまで生命の自然の営みに科学が介入してよいかということを、死の問題とセットで議論すべきではないかと考えるのです。つまり、表裏一体の問題の一方は批判して、もう一方は無批判というのでは、真に当を得た議論には到底なり得ないでしょう。

 例えば、回復の見込みがない患者さんがいたとします。どう手を尽くしてもだめだから、安らかな死を求めて治療を手控えることは、確かに大切な選択です。しかし、あくまでも1つの選択です。異なる選択を一見論理的でないと即断的に否定してもよいのでしょうか。命の問題は科学だけでは決められません。ある意見が大切なら、別の意見もまた大切だと思うのです。国民的規模での議論が必要だと思います。
 

■ これからの慢性期医療はどうあるべきか
 

 医療というのは、困っている人に手を差し伸べるものだと思うのです。ですから、心の優しさとか、共感するとか、そういう姿勢が大切なのではないかと思います。100%医学ならば論理的、科学的にやればよろしい。研究はそれでいい。しかし、医療には人の心が介在しますから、学問で割り切れないものがあります。昔から「医者のさじ加減」と言いますが、本当に大切なことは「心に対するさじ加減」だと思うのです。薬は科学的に使って、心はさじ加減で癒してあげることが大切ではないでしょうか。

 人の死というのは、本人が一番大切ですよね。自分の生死ですから。その次に大切なのは家族です。家族の一員であるその人の死。そして第三番目には社会から見た、その人の死でしょう。ですから、優先順位は本人の希望が第一ですよね。でもその次が、なぜか多くの場合「社会から見た死」になっているのです。家族が「これこれの理由であと1か月生かしてくれ」と希望する場合もあります。しかし不要な延命とみなされます。場合によっては本人の意思さえも無視されることもあります。

 確かに、治療には費用が掛かります。だからと言って、生存に必要な医療を「それは過剰だ」と決めつけて、現今のように保険者が一方的に査定することには疑問を感じるのです。何にお金を使い何を我慢するのか。これは、もっと議論をする必要があると思います。医療財政が厳しい中で、「その医療はいけない」と言うのであれば、「こういう医療しか受けられないよね」という国民的合意を得る必要があると思うのです。そして、法的な手続きを踏んだ上で実施されるのであれば、私もそれに従いたいと思います。

 しかし、社会的な合意が成熟していない段階で、たとえ将来的には正しいとしても、「この人にはもはや治療は不要」とか「医療費を食い物にしている」とか、判断することには疑問があります。少なくともこれまでは、患者さんや患者さんのご家族が希望されるならば、その思いに対して精一杯応えてあげることが医療の原点であったのではないでしょうか。ですから、私は慢性期医療というのは医療難民を救う医療として必要な医療だと思っています。

 「私はもっと生きたい」と言うときに、医療側の人間は「あなたにはもうやることがないから死ぬしかないよ」とか「費用の無駄ですね」とか考えるのでしょうか。私にはさびしい考え方に思われます。非医療者先導で死にまつわる議論を深め、国民のコンセンサスを得ることが必要ではないでしょうか。私たち医療者は、国民の一人としては思うところを主張すべきですが、医療者としては国民のコンセンサスが形成されるまでは、社会情勢の変化を勘案しながらも従来の日本人の生命観を尊重した医療(明らかに不要な医療をすることではありません)を実践して、今後の議論のデータにしてゆくことこそが必要だと思うのです。
 

■ 若手医師へのメッセージ
 

 当然のことですが、大病院の若手医師は、自分の専門領域については非常に詳しい。だから、100点、200点の技術を持つ専門医はぜひ開業しないで大きな病院に一生勤めていただきたい。しかし反面では、非常勤でお越しの先生方を拝見していると、幅広い分野について、それなりにこなしてくださるような医師は少ない気がします。

 救急病院や専門病院では、個々の患者さんに対し明瞭な治療目的があります。しかし、病状が安定して転院してくる慢性期医療には特定の治療目的がありません。しいて言うならば全身管理です。専門領域の知識や経験だけでは対応できません。さらに、急変すれば原因が何であれそれらにも対応が必要です。慢性期の病院では、数名の医師だけでいわば全料的医療の実践を余儀なくされます。

 「対応できなければ転院させればいい」と思うかもしれませんが、若年者ならともかく入院中の高齢患者を簡単に受け入れてくれる大病院は容易には見つかりません。さらに、大病院に送ろうとすると、「まず1回、外来で診させてください」と言われることがしばしばです。予約制度はありますが、状態が悪くても外来で待たねばなりません。だから、自分たちで色々やらなければならないのです。「60点の医療でも、あれもこれもこなす」という医師がたくさんいてもらわないと、これからの高齢社会を乗り切れないと思うのです。慢性期病院の医師や開業医は、昔のように何でも診てスクリーニングして、それで対応できないときに専門医に送るというやり方のほうが医師の数を考えても効率的だと思います。

 このような現状や将来のことを考えると、これからの専門医は少数でよく、多くの医師は昔のように地域に密着して、いろいろなことに対応できることが求められるように思います。大病院の内科から患者さんが送られてくる、整形外科からも来る。あれもこれも対応できないと受け入れられない。ぜひ、患者さんのためにそういう医師を目指してほしいのです。自宅に帰ることができない患者さんにとって、重症の患者さんを受け入れる慢性期の病院は「最後のとりで」なのです。
 

■ 日本慢性期医療協会への期待
 

 日本慢性期医療協会に参加させていただいてから情報が非常に多くなったことや、研鑽の場がとても多くなりました。診療報酬改定後など、算定要件を満たす上で欠かせない研修などを迅速に開催していただいていることは非常にありがたいと思います。これからも、こうした活動を積極的に展開されることを期待します。

 私は、何か特別な技術があるとか有名とかではなく、今回のインタビューを受ける資格はないと思っています。しかし、もし一言許されるなら、慢性期医療は決して過剰な質の悪い医療をやっているのではないということをお話ししたく、受けることとしました。患者や家族の求めに応じ、医学の進歩に鑑みて最小限必要と思われる医療を一生懸命やっています。協会には、そのような基本的スタンスを今後も発信し続けてほしいと願っています。(聞き手・新井裕充)
 

【プロフィール】

 1982年 新潟大学大学院修了(医学博士)
 1990年 文部省在外研究員(英国、仏国)
 1992年 文部省在外研究員(英国)
 2002年 福島寿光会病院長
 

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