「第20回日本慢性期医療学会福井大会」のご報告(6) ─ シンポ3(終末期)

会員・現場の声 協会の活動等

福井大会シンポ3

 「第20回日本慢性期医療学会福井大会」のシンポジウム3は、「人生の終末期を考える~在宅死vs.施設死の議論の中で」をテーマに行われました。座長を日本慢性期医療協会(日慢協)副会長の中川翼氏が務め、シンポジストとして長尾クリニック院長の長尾和宏氏、いばらき診療所理事長の照沼秀也氏、医療法人社団永生会統括看護部長の安藝佐香江氏が参加しました。各シンポジストのご講演要旨と意見交換の模様をお伝えします。
 

[座長・中川翼氏]
 終末期医療、ターミナルケアをめぐる問題は、毎年、この学会のシンポジウムで企画している。今回は、池端大会長の非常に勇敢なお考えで、「施設死バーサス在宅死」というテーマを取り上げた。活発な議論を期待している。最初は、在宅医療の立場から長尾和宏先生にお願いしたい。
 

■ 長尾和宏氏(長尾クリニック院長)
 

在宅医療の目標は病院も施設も同じ
 

 私は尼崎の下町で在宅医療に取り組んでいる。開業して17年になる。これまで約650人を在宅で看取った。現在、年間約80人を在宅で看取っている。かつては、消化器内科医として病院に勤務していた。本日は在宅医の立場から、「『平穏死がかなう慢性期病院』と『午後から在宅医』の連携」と題してお話ししたい。

長尾和宏氏(長尾クリニック院長) 国は「在宅へ」という方針で、診療報酬も在宅医療に多く付いているが、それだけではなかなか在宅医療の推進は難しい。やはり、日慢協の会員のような病院との連携がなければ、住み慣れた自宅で医療を継続するのは難しいのではないか。

 近年、「平穏死」や「自然死」を扱った書籍がかなり売れている。私も、「『平穏死』 10の条件」という本を書かせていただいた。石飛幸三先生の「平穏死のすすめ」や、中村仁一先生の「大往生したけりゃ医療とかかわるな」などの本を合わせて、100万部以上売れている。一種のブームのようになってきていると思う。

 在宅医療の目標は、病院も施設も同じであると考えている。「患者さんのQOL×寿命を最大値にすること」であると考え、在宅医療に取り組んでいる。
 

病院と在宅では文化が違う
 

 3つの言葉がある。「平穏死」「自然死」「尊厳死」、これらはほぼ同義語として使われている。ただ、「尊厳死」はもう少し広い。私は、延命処置をせずに自然に死を迎えることを「平穏死」ととらえている。

 病院で平穏死しにくい理由は何か。確かに、優れたケアをしている病院がある。そのレベルの高さに感心しているが、急性期病院など一部の病院では、がんのターミナルで延命治療をしている。その理由はいろいろ考えられる。「キュアからケアへ」と言われるが、そのギアチェンジのタイミングの難しさもあると思う。

 医師法21条の潜在的恐怖もある。「医者が延命治療をしなかった」という理由で訴えられるのではないかとの危惧もあるだろう。この21条とごっちゃになる規定として20条がある。医師法20条は、国会でも議論されたように、「24時間以内に診ていれば往診しなくても看取りができる」という規定だ。つまり、患者宅に行かなくても死亡診断書が書ける。24時間以上経過していたら、行って書けばいい。これが20条の意味だ。

 これに対し21条は、「24時間以内に異状死体を見たら警察に届け出る」という規定である。どちらの条文にも「24時間」という文言があるため、これらの条文が混同されている。多くの開業医は「24時間以内に診ていなければ死亡診断書を書けない」という意味であると誤解している。このような誤解があることも在宅死の阻害要因として挙げられる。この誤解をなくさないと、在宅での看取りは進まないのではないかと言われている。

 在宅での看取りの多くは、延命措置をしない自然な形での最期だ。病院でもそうだと思うが、一部の病院ではかなり濃厚な延命措置を行っている。患者さんやご家族が望んだためにそうなったのかもしれない。ただ、こうした現実があることを指摘したのが、先ほど紹介した著書である。病院と在宅では、少し文化が違うように思う。価値観や感覚を共有しないと連携は難しい。

 在宅医療では、診療の質がほとんど評価されていない。また、病院は情報公開が進んでいるが、在宅には密室性がある。良い看取りをしても、病院関係者に知られる機会があまりない。悪いところばかりが病院側に伝わってしまっている面がある。
 

胃ろうをめぐる議論の本質は
 

 延命治療とは、「人工栄養」「人工呼吸」「人工透析」の3つを言うと考える。近年、胃ろうが問題になっており、「胃ろうという選択、しない選択 『平穏死』から考える胃ろうの功と罪」という啓発書を出版する予定だ。

 今年6月、日本老年医学会は「患者本人の尊厳を損なったり苦痛を増大させたりする可能性があるときには、治療の差し控えや治療からの撤退も選択肢となる」、すなわち「胃ろうを中止してもいい」という考えを示した。こういうこともあり、今年は大きな転換の年だったと思う。

 胃ろうには、「ハッピーな胃ろう」と「アンハッピーな胃ろう」がある。多少は食べることができて、元気な笑顔が戻るような胃ろうは「ハッピーな胃ろう」だが、意思疎通ができず、自分の唾液さえも誤嚥してしまうような胃ろうは「アンハッピーな胃ろう」になると思う。こういう議論をすると、ALSの患者さんらが非常に危惧されるので、難病患者さんの胃ろうは「福祉用具としての胃ろう」であり、「延命措置ではない」と私は考えている。

 胃ろうをめぐる議論の本質は、リビング・ウィルがあって、不治かつ末期であっても、植物状態になっても中止が難しいという点にある。アンケートでは胃ろうを中止したケースが約2割あるが、大っぴらにはできず、あうんの呼吸でやっている。ガイドラインがあるが十分に周知されておらず、どのように扱っていいのか分からないのが現状だ。

 諸外国ではリビング・ウィルでの意思表明率が高いが、日本では0.1%にすぎない。ただ、各医療機関における取り組みとして「事前指示書」が普及し始めていると思う。
 

諸外国でも悩む終末期
 

 「日本尊厳死協会」という団体がある。私はその役員を拝命している。1976年に結成され、現在約12万人が加入している。1976年は、病院死と在宅死の割合が逆転した年だ。ご存じのように、現在約8割が病院で亡くなっている。しかし、それ以前は8割が自宅で亡くなっていた時代もある。その後、病院死が増え、在宅死とクロスした年が76年だ。同協会はその年に設立され、リビング・ウィルの啓発活動や、リビング・ウィルの署名を管理している団体とお考えいただきたい。

 最近の報道にもあるように、約120人の国会議員でつくる「尊厳死議連」でいろいろな議論がなされており、もう8年目になる。まだ法律案は国会に提出されていないが、「リビング・ウィルが表明されていた場合に、2人以上の医師が不治かつ末期であると判定したときは、延命治療を差し控えても医師は免責されるのではないか」という考え方で、「患者さんの意思を尊重する法律案」である。A案は、延命治療の不開始。すなわち、胃ろうを入れない。B案は、胃ろうを入れたら中止する。当然、B案で検討が進められている。

 オランダで「尊厳死」と言えば、終末期の患者さんに薬剤を投与して死期を早めることを意味する。これは日本では「安楽死」になる。日本で「尊厳死」と言えば「自然死」のことだが、外国では当たり前のことなので「自然死」を意味する言葉は特にない。オランダの「安楽死」は、日本では殺人罪になる。

 現在、「終の信託」という映画が公開されている。「終の信託」とは、英語で表すとリビング・ウィルで、この映画は「尊厳死」を扱っている。「自然死」に近い。諸外国で言うところの「尊厳死」ではない。医師が殺人罪に問われた川崎協同病院事件がモデルになっている。

 イギリスやフランスでも、この問題については悩んでおり、私も6月に「死の権利・世界連合大会」で発表したり、いろいろな勉強をしたりしてきた。諸外国ではさまざまな対応をしており、悩んでいるのが現状だ。日本ではリビング・ウィルが法的に全く担保されていない。一方、フランスでは「レオネッティ法」が2005年に制定され、延命中止の手順が明記されている。緩和ケア体制の整備と両輪でやっている。
 

在宅と施設との温度差はない
 

 「終末期」には3つの衰弱パターンがある。まず、「最終急降下型」の末期がん。最後に急に落ちる。次に、老衰や認知症などの「長期緩慢低下型」、そして3つ目は臓器不全症や神経難病など「長期変動降下型」。このうち、末期がんは急にストーンと落ちるので、当院では約97%が在宅で看取っている。しかし、2と3のパターンは在宅での看取り率がその半分、4割程度に落ちる。

 認知症や臓器不全症の患者さんは介護負担があるので、慢性期病院との連携がなければ在宅での看取りが難しい。近年は、病院や施設でも「元気なうちから話し合っておこう」という動きが進んでおり、在宅と施設との温度差はなくなってきている。

 2012年度改定で、在宅療養支援診療所に機能強化型が加わったため、3つの類型になった。往診料は3倍ぐらい違っており、「一物三価」になっているという問題点がある。また、在宅療養支援病院と一部競合しているので、在宅療養支援診療所と在宅療養支援病院とどのように役割分担するかという問題もある。

 「良い在宅医」「悪い在宅医」がある。病院からすれば、在宅医の悪い所しか見えず、在宅医からすれば病院での「平穏死」を見ることができないので、お互いの悪い所ばかり見ていて誤解している部分もあるのではないか。

 現在は、「在宅医療」と言うよりも、「地域包括ケアシステム」の中での在宅死、病院死ということになるだろう。そこには行政やNPOなどもどんどん加わり、「集い場」でフラットに話し合っていく時代であると考えている。「エンド・オブ・ライフケア」の感覚を共有し、「地域包括ケアシステム」の中で、しっかりと連携していけたらいいと考えている。[→ 続きはこちら]
 

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