「第20回日本慢性期医療学会福井大会」のご報告(5) ─ シンポ2(2012改定)

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福井大会シンポジウム2-「2012年診療・介護報酬同時改定の検証と今後の課題」

 「第20回日本慢性期医療学会福井大会」のシンポジウム2は、「2012年診療・介護報酬同時改定の検証と今後の課題」をテーマに行われました。座長を日本慢性期医療協会(日慢協)副会長の松谷之義氏が務め、シンポジストとして厚生労働省保険局医療課長の宇都宮啓氏、慶應義塾大学大学院経営管理研究科教授の田中滋氏、全日本病院協会会長の西澤寛俊氏、日慢協副会長の安藤高朗氏が参加しました。各シンポジストのご講演要旨と意見交換の模様をお伝えします。
 

■ 宇都宮啓氏(厚生労働省保険局医療課長)
 

「少子高齢化」に伴う3つの課題
 

 現在、少子高齢化が進んでいるとはいえ、社会を支える人口がまだたくさんいる。しかし、2025年には支える世代の割合が非常に減る。2055年には、高齢者1人を1.2人で支えることが予想されている。私は、こうした少子高齢化には3つの課題があると考えている。

宇都宮啓氏 まず1つ目は、数字上の話だけではなく、医療がかなり変わっていくのではないかということだ。高齢者の特性として、慢性疾患が多く、病気がすぐに治るようなことが少ないと言われる。「一病息災」「二病息災」で、いくつもの病気を抱える人が増える。さらによく言われるのは、代謝能力の低下。われわれが医学部で習ったような医療の常識では考えられないような身体の状態の患者さんを診る時代になる。

 ある在宅ホスピスに見学に行った際、「自分は世の中に未練がないから透析をやめるんだ」と言ってホスピスに入った患者さんがいた。われわれの常識で考えれば、透析をやめれば間もなくお亡くなりになる。しかし、その患者さんは透析をやめてから1年ぐらい元気に生きていたという。そうすると、「今までの透析は何なんだ」とも言いたくなる。こうした患者さんが、これからの医療の主流になる。これは非常に大きな問題ではないか。

 2つ目は、地域の重要性が増すこと。高齢者の移動可能な範囲を考える必要がある。年を取ると活動能力が衰える。独居老人も増えてくる。単独または高齢者のみの世帯も増加する。身近な地域の重要性が増してくる。

 3つ目は、保険制度における現役世代の負担が増加するということ。人口構造の変化を見ると、胴上げ型から騎馬戦型へ、そして肩車型へ変わる。1人が1人を支える人口構造になる。そうした状況で、従来からの医療、年金などの制度をどのように維持していくか。

 給付と負担のバランスも問題だ。現役の若い世代の負担が大きく、高齢者への給付が多い。今後、さらに高齢者の人口が非常に増加するため、どのように対応していくか。介護者がいない世帯も増える。認知症患者も大幅に増える。都市部の高齢化も深刻だ。従って、人口構造の問題だけではなく中身の問題も含め、非常に大きな課題をわれわれは抱えている。

 社会保障給付費は年々増加しているが、社会保険料の収入はあまり増えず、公費負担が増えている。お金は天から降ってくるものではなく、われわれ自身が納めている。そうしたことを含めて、負担の問題をどうしていくのかも大きな課題となっている。
 

ケア付き住宅のニーズはある
 

 内閣府の世論調査によると、介護を受けたい場所として、「現在の住まい」を選択する人が多い。病院に入院して介護を受けたい人は1割ぐらいしかいない。最近、介護付きの有料老人ホームなど、ケア付きの住宅が増えている。本来ならば自宅で介護を受けたいが家族の負担が増え、かといって施設や病院には入りたくないという人がいるため、自宅に近い環境のケア付き住宅に入りたいというニーズはある。

 諸外国に比べて、わが国の「介護保険3施設」の整備状況は見劣りしないが、ケア付き住宅が非常に薄い。死亡場所についても、わが国は8割ぐらいの人が病院で亡くなっているが、ケア付き住宅での死亡が非常に少ない。介護してくれる若い世代が自宅にいない高齢者世帯のため、いかにケア付きの住まいを確保していくかが重要な課題である。

 一方、「地域包括ケア」を進めるため、自助や互助の見直しがポイントとなる。まずは家族らが対応し、それが難しいものは専門職に助けてもらうことが必要だ。つい最近まで介護保険を担当していた立場から言えば、制度が充実してくると最初から制度に頼る傾向が見られる。自立できる能力があるのに安易にヘルパーさんに頼るようなことがある。そこで、「ちょっと待てよ」と、「あなたもう少し自分で頑張ってみたらどうか」と言いたい。

 医療の場合は、病気や障害が起きても、それを治そうという意識が本人にある。医療関係者や専門職にもそういう意識がある。しかし、介護の場合はどうしても、「やってもらったほうが楽になる」という発想がある。そこをもう一度見直す必要がある。高齢者夫婦のみの世帯、高齢者単独の世帯が増えていく中で、ここをもう一度見直すべきだ。「地域崩壊」と言われるが、地域をどのように再生させるかが課題であろう。
 

ケアマネと医療との連携も課題
 

 制度改正のたびに、「国はコロコロ変える」「どっちを向いているか分からない」というご批判を頂くが、「地域包括ケアシステム」の構築に関しては明確な目標であり、介護保険法改正の趣旨にも、社会保障と税一体改革にも明記されている。4月の同時改定も、「地域包括ケアシステム」の構築を目指す第一歩の改定である。今後の改定でいろいろな変化はあるにせよ、目指す方向性は変わらない。これを頭に入れていただければ、今後どのような改定があろうと、みなさんは理解しやすいのではないか。

 今回の同時改定は、在宅を充実する方向で行われた。先述の話を念頭に置いていただけば、なぜそのような点数が付いたのか、理解しやすいと思う。このシンポジウムのテーマには「検証」とあるが、それは私が検証するよりも、西澤先生ら当事者にやっていただいたほうが、厳しいお話も出るのではないか。私はむしろ、現在の話よりも将来の課題についてお話ししたい。

 今後、「地域包括ケアシステム」の構築に向けてどのようにしていくか。今回の改定で一定の手だては打ったが、やはりまだまだであり、今後数回の改定で実現を目指していくものだろう。先述したように、自助と互助。どこまで自分たちでやっていくかという問題。私は田中滋先生の「覚悟」という言葉が好きだが、地域に生きる人たちの「覚悟」も非常に重要な要素になる。

 それから、誰が地域でマネジメントするのかという問題もある。これは医療よりも介護に近い話かもしれない。ケアマネジャーが中心的な位置付けになっているが、ケアマネと医療との連携がなかなかうまくいかない。医療職をバックグラウンドにしているケアマネはいいが、そうでないケアマネだとうまくいかないという現実がある。

 こうした状況に対して医療側は、「ケアマネが訳分からないから駄目なんだよ」と突き放すような態度でいいのか。もっと医療側が、ケアマネや介護の側に入り込んでいく、一緒にやっていくということも必要ではないか。

 今回の改定では十分な手当てができなかったが、予想以上に増加している認知症への対応も考えていかなければならない。また、病床配分も問題だ。今後どのようにしていけば、地域のニーズに合った配分になるのか。現状は果たして地域のニーズに即しているかを考えて、われわれは対応していかなければならない。診療報酬だけでできることではないので、医政局とも連動しながら、対応策を検討していきたい。
 

■ 田中滋氏(慶應義塾大学大学院経営管理研究科教授)
 

「中負担・中福祉」に戻す設計図
 

 診療報酬改定の検証について、少し大きな眺めから説明したい。今回の改定は、「社会保障・税一体改革」の中での動きである。まず、税金や社会保険料の負担と、社会保障給付との関係を考えたい。仮に、税金をたくさん取って王様がたくさん使い、福祉にあまり使わないとすると、これは長く続かないし、最後は革命が起こるだろう。

田中滋氏 これに対し、「低負担・高福祉」は理想だ。日本では戦後、自民党と社会党がこの世界をつくってきた。それは別財源である国際価格の10倍に及ぶ米価と、税金を使わず財政投融資を使った公共事業などを通じて、「低負担・高福祉」のまねごとかもしれないが、実現していた。東京から北九州に至る富を、東北や南九州に渡してきた。小泉内閣になり、「こういう姿ではいけない」ということで、新自由主義により「低負担・低福祉」に近い主張が一時、日本を支配した。

 その後、先送りの「低負担・高福祉」の議論があった。これは、夢想か欺瞞で、実際には続かない。本来は、ある程度の税金や社会保険料をきちんと負担し、社会的に連帯して自立を支える体制しか続かない。理論的に可能なのは、「低負担・低福祉」「中負担・中福祉」「高負担・高福祉」の3つで、これは選択の問題になる。わが国は「中福祉・中負担」を続けていたが、小泉内閣時代の2006年ごろ、「中福祉・中負担」のほころびに一度向かった。

 しかし、最近の動きとしては、国民がきちんと負担せず、まずは国債などを使ってなんとか「中福祉」にしようというのが、この2回の診療報酬改定であった。かなりのプラス改定で、とりわけ急性期医療を中心に付いた。つまり「高福祉」に動いたが、実際に国民の負担が増えたわけではない。「社会保障・税一体改革」では、きちんと「中負担・中福祉」に戻そうという設計図が描かれており、今回の診療報酬改定もそういう意味で読むことができる。
 

基本は自助と互助
 

 このシンポジウムにおける私の役割として、「地域包括ケアシステム」について述べたい。「地域包括ケアシステム」については、各地域でいろいろな理解があると思うが、改めて医療界の方々にお話ししたい。

 「地域包括ケアシステム」は、医療や介護を中心に、保健・予防や福祉・生活支援があると考えがちだが正しくない。これは、「地域包括ケアシステム」の部品を並べてはあるが、正しい構造ではない。「地域包括ケアシステム」のベースは、「すまい」である。「地域包括ケアシステム」の報告書を書いたのは2年前。その後、東日本大震災を見てから考え方が変わった。「すまい」のない所に、医療も介護もないということがよく分かった。

 「すまい」には、ニーズだけではなく需要が入る。医療はあまり需要が入らず、客観的なニーズに応じて給付されるが、「すまい」にはさまざまな需要が入る。その上で、大きな窓を描きたい。それが生活である。被災地のさまざまな報告を拝見して、やはりベースは生活だと思うようになった。生活が成り立たない所では、医療や介護は何の意味もない。生活が成り立った上で、「医療・看護」、「保健・予防」、「介護・リハ」などの専門的なサービスが乗っかる。基本は自助と互助。右まひになったら、お世話を受けるのではなく、左手でご飯を作るのは当然だ。その上ではじめて、専門的なサービスが乗っかるのが、「地域包括ケアシステム」の正しい理解であろう。
 

自治体が地域ニーズを把握
 

 自助を失った社会は続かない。国際競争に勝つどころか、社会として存在できるか分からない。年を取っていようといまいと、自己能力を活用する。応分の経済的負担もそうだ。保険料を払うのがイヤなのに良いサービスがほしいというのは夢である。中世でも近代でも、人々はそうして生きてきた。

 ただし、新自由主義者が言うように、すべてが自助であるという社会はぎくしゃくするし、これもまた続かない。助け合い(互助)が必要であり、それは友人間かもしれないし、米国社会のように多額の寄付かもしれないし、インフォーマルなサービス提供かもしれない。互助はプロフッショナルではないから、共助の世界がある。プロフッショナルのサービスを使う。共助だけでは救えない貧困や虐待、まちづくりというレベルについては公助。これら4つのヘルプを組み合わせていくという哲学が、「地域包括ケアシステム」の背景にある。

 共助は、医師や看護師ら専門家たちの世界であり、当然に質が事後的に評価される。互助の世界では質が問われない。近所の人たちが集まって食事会をする際に、おいしいかまずいかは問題ではないが、医師や看護師らの仕事は質が問われる。専門施設である慢性期医療機関も同様である。今回の報酬改定では、機能に応じた点数設定だった。

 公助には、弱者のためのサービスという視点があるが、私はもう少し広くとらえたい。地元の自治体の巻き込みがないと、「地域包括ケアシステム」はできない。「地域包括ケアシステム」は自治体の仕事でもある。ここで、圏域調査が重要となる。一般の財では、需要調査をする。冬にどのようなおでんを売るか、夏にどのようなビールを売ろうか、アンケート調査をする。アンケートに食らいついてきた人がお客さんだ。ところが、介護や障害者ケアなど、特に高齢者ケアの世界では、アンケートに答えない人にニーズがある。元気に帰ってくる人には、さほどニーズがなかったりする。だからこそ、自治体しかできない調査がある。

 日常生活圏域ごとのニーズ調査をして、それに基づいて地域診断を下し、その一方で事業側の存在も調べ、事業者のサービス目標などを設定する。これまでのような保険料算定計画から脱却して、地域づくりの計画に移る必要がある。例えば、高齢者宅への配食ニーズを把握して、お弁当を届けたいと考えているスーパーやコンビニなどをマッチングさせるような機能は、自治体しかできない場合がある。市場経済のメカニズムだけではマッチしない。

 何よりも、「地域包括ケアシステム」の意義を伝えて勉強会を開催し、住民自身を講師に巻き込んでいくような作業も自治体が行うべきだ。2000年4月、介護保険制度により年金から保険料を天引きしたにもかかわらず、なぜ支持率が高かったのか。1997年、いやもっと前から、厚生労働省の担当者らが県庁所在地に行って講演会を開催した。市町村の方々は、地元の高齢者クラブの方々と膝詰めで、介護保険の意義を論じる会を開いた。

 こうした住民の理解促進なしに政策を打つと、2008年の後期高齢者医療制度の時のように、テレビが「年金から天引きとはけしからん」という間違った誘導をする。そんなものは2000年からとっくにやっていた。「年齢による差別はけしからん」と言うが、介護保険は年齢による差別をしている。64歳では交通事故で要介護になっても介護保険を給付しないという、すごい年齢差別をしている。にもかかわらず文句が出ない。なぜならば、理解促進のための努力をしてきたからだ。これを自治体がすべきである。

 さらに生活圏域まで下ろすと、「地域ケア会議」になる。これをぜひ活用していきたいし、地元の薬局なども手伝うべきだろう。処遇困難事例に対するケースカンファレンスなどを通じて、ケアマネジャーを育成、支援する機能を持ち得る。地域の課題を導き出し、保険給付外の「互助」も構築していく。何よりも、資質を問われているケアマネジャーに対する学びの場を与える。

 地域の課題や資源は、地域ごとに違う。しばしば、「『地域包括ケアシステム』とは、どのような形になりそうですか?」という質問を受ける。「100通りあるでしょう」というのが答えだ。医師会中心型、市役所中心型、社会福祉法人主導型、老健主導型、慢性期医療機関主導型など、何でもある。地域課題、地域資源がそれぞれ異なるので、地域ごとにネットワーク化していく。これは、個別利用者のケアマネジメントとは違うやり方になる。第一層は個別利用者のケアマネジメント、第二層は生活圏域マネジメントで、一番上に地域レベルのマネジメントがある。
 

各地域に在宅医療の司令塔を
 

 わが国では、ロングタームで人々にケアをする仕組みはそれなりにある。北欧の人が見学に来ても、「日本はなかなかすごいね」と言うようになった。しかし、国際ランキングがまだ低いのは、エンド・オブ・ライフケアだ。「地域包括ケアシステム」は介護保険だけのビジョンではなく、介護保険を越えたビジョンであると考えている。

 地域医療拠点を市役所ごとにつくり、地域の医師会と市役所が組んで、在宅医療の司令塔をつくる。医師会とけんかして在宅医療をしている地域が目立つ。医師会は、「在宅医療をしている医師たちの裏には企業が付いているのでけしからん」と言う。逆に、在宅医療の医師らは、「在宅医療をしようとすると、『客を取る』と言って怒られる」と言う。こういう非常に次元の低い話を時々聞く。そうならないように、地域ごとの拠点を市ごとにつくる。

 とりわけ、団塊の世代に「覚悟」がなくてはいけない。75歳、80歳になったら老夫婦2人で住む覚悟だし、どちらかが死んでしまったら、1人で死ぬ覚悟。これは、「孤独死」ではない。「孤独死」とは、死後半年ぐらい見つからないことを言う。前日にヘルパーと会って「おやすみ」と言って、朝に亡くなっていたら、幸せな死に方である。今後は、こうした覚悟が必要となる。

 家族に囲まれて死ぬ場合もあるかもしれないが、独り暮らしで自立できている人が、ある日1人で自然に死んでいるという覚悟がなければ、「地域包括ケアシステム」はできない。甘えてはいけない。外部の方に向かってこう言うと、すごく失礼だと思うが、私は自分のことだと思っている。

 今後、クオリティ・オブ・デスに慢性期医療機関がどう関わるかが重要な課題である。これについては、西澤先生、安藤先生が答えるという宿題にして、私の話を終わりたい。[→ 続きはこちら]
 

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