【第37回】 慢性期医療リレーインタビュー 中川翼氏

インタビュー 役員メッセージ

中川翼副会長

 「目指すところは『日本の慢性期医療のモデル病院』になること」と語るのは、日本慢性期医療協会の副会長で、医療法人渓仁会・定山渓病院院長の中川翼氏。同院は札幌市南区の自然に恵まれた定山渓温泉に位置し、急性期の治療が終わった後の継続的な医療やリハビリ、看護や介護サービスなどを提供する病院です。「身体抑制廃止」に早くから取り組み、「人権と尊厳」を基本理念のトップに掲げています。中川氏は「制度改革に翻弄されず、定山渓病院のあるべき姿を追求していきたい」と話します。
 

■ 医師を目指した動機
 
 父が札幌医科大学精神科の教授、母が眼科の勤務医師という環境が影響しているのだと思います。中学生ぐらいの頃に医師になろうと考えました。
 
 東京に出ていこうという気持ちもありましたが、北海道が好きでしたので、最終的には地元の北海道大学に進みました。私を含めて6人の兄弟が全員医療関係の学部を選んだのも、両親の影響があったのかもしれません。
 

■ 急性期医療から慢性期医療へ

 私は、神経系の分野にとても興味があり、脳神経外科の先生の指導の下で、学生の頃から神経系の勉強会をしていました。脳神経外科は精神的、肉体的にとても厳しい科ですが、患者さんを診断して、治療もできる神経系の臨床科ということに魅力を感じました。新人の頃は終日勤務して、夜は病院に泊り込む生活でしたが、大変やりがいを感じて仕事をしていました。40代の半ばに勤務した釧路労災病院では6名の医師で年間400件以上の手術に取り組み、北海道東(道東)の脳神経外科のまさに中核的な存在でした。また、長い間大学を中心に研究、研鎖した業績を他の著者の力も借りて一冊の単行本「脳虚血~基礎と臨床」(1986年発行、全318ページ)にまとめたのもこの時期です。この種の本は当時始めてであり、多くの脳神経外科医師に読まれました。
 
 急性期医療に携わって27年が過ぎました。53歳の頃、私は慢性期の医療機関に異動いたしました。当時私は釧路労災病院から、札幌市の医療法人渓仁会・手稲渓仁会病院へ異動し、副院長兼脳神経外科部長をしていました。ある時、渓仁会の初代理事長の加藤隆正先生に呼ばれ「停滞している同じ系列の慢性期医療機関である定山渓病院を活性化してほしい」と強く要請されました。私はかなり駆け足で脳神経外科領域に取り組んでいましたので、そろそろそれもよいかなと考え、加藤隆正先生の要請を引き受けました。それ以来、約20年になります。急性期27年、慢性期20年。「二つの人生を生きる」という思いです。

 急性期医療に長く携わった経験も踏まえて申し上げますと、慢性期医療の役割は非常に大きいと思います。長い療養が必要で自宅では難しい患者さんを、しっかりと優しく大切にみていくのが慢性期医療です。当院に入院している患者さんの平均年齢は71歳で、18歳から100歳近くまで年齢層の幅が非常に広い。若い時に脳血管障害を起こした人もいますし、ご高齢で心肺停止状態になって低酸素脳症になる人もいます。家族は熱心に回復を願いますが、なかなか容易には回復が見込めない。ほかの施設では受け入れが難しい患者さんがいます。そういう人たちに優しく接していくのが慢性期医療だと思います。

 慢性期病院にしかできないのは、重い障害を抱えた患者さんを長期にわたって支援していくことです。これは急性期病院にはできません。ですから、慢性期医療本来の役割を忘れてはいけません。あまり背伸びをして、本来果たすべき役割を軽視してはいけないと思っています。かつて、「終末期医療にはお金が掛かる」と言われたことがあります。しかし現在は、胃瘻も限られた患者さんしかつくりませんし、すべての患者さんに点滴するということもありません。慢性期医療はいま、安らかに家族と過ごしてもらう場へと、本当に変わってきたと思います。

 私は71歳になりました。こうして死が近づく年齢になってきますと、自分にとっての「死のかたち」というものが見えてまいります。そこで思うことがあります。医療側が言うことと受け手との差があってはいけないということです。自分がいつ受け手になるか分からないからです。自分たちが患者さんに言っていることや、していることが、今度は自分が言われる側、される側になるかもしれない。ですから、双方が理解できる内容でなければいけない。医療側の一方的な視点で「必要だからやる」というのではなく、患者さんやご家族の理解をきちんと得る必要があります。

 私たちは、人生の最期をお預かりしています。双方の願いをすべて叶えることはできないかもしれませんが、できるだけ目線を患者さんに合わせることが大切です。当院では、リハビリスタッフも終末期に関わります。患者さんが元気な時だけ関わるのではなく、患者さんが衰えていく過程、そして最期の瞬間にも関わりなさいと言っています。たとえリハビリの条件から外れる患者さんでも、昼休みにちょっと顔を出して見つめてあげると、患者さんだけでなく家族も癒されます。最期まで大切にしてくれると感じるのです。リハビリ、看護、介護などすべてのスタッフが最期まで関わることは、職員の学びにもなるし、患者さんやご家族にとっても非常に良いことです。

 慢性期は非常に裾野が広い。その人の人生をすべてみる。脳神経外科という領域は極めて重要ですが、かなり限定された分野です。これに対し、慢性期医療は急性期医療よりも長い期間、患者さんに関わりながら、様々な悩みや苦しみを共有します。非常にやりがいがあります。とても人間的で、社会的で、生活に根ざした、人の人生そのものの世界です。私にとって慢性期医療は天職であると思っています。
 

■ これからの慢性期医療はどうあるべきか
 
 一人ひとり、人生の最後は違います。年齢も生活環境も家族背景も違います。そういう様々な人たちが人生を終える時に現場は何ができるのかを職員全員で学び、慢性期医療の質を高めていくことが必要であると思います。

 私は慢性期病院に移った当初、少々戸惑いましたが、実際に慢性期病院に行ってみると、やらなければいけないことがたくさんあると感じました。まず、身体拘束の廃止です。当時は、高齢患者が徘徊しないように、車椅子やベッドなどに縛り付ける病院が多くありました。そうした中、1998年10月に福岡市で開催された第6回介護療養型医療施設全国研究会で、「抑制廃止福岡宣言」が発表されました。当院の看護師らは福岡宣言に共感し、「ぜひ当院でもやりたい」と言いました。翌99年7月29日、当院でも「抑制廃止宣言」を打ち出し、北海道新聞が取材に来るなどメディアからも注目されました。

 私は「抑制廃止宣言」に向けて職員に「院長が責任を持つ」と言いました。私は、「身体拘束の廃止は看護・介護のスタートである」という強い意思で取り組みましたが、実は職員に背中を押してもらったようなものです。「抑制廃止」によって、職員が大きく成長する土壌ができました。身体拘束廃止は、患者さんのためだけではなく、職員の成長にとっても重要な取り組みであったと思います。現在、私が顧問を務める「北海道抑制廃止研究会」を毎年開催しており、多くの関係者が集います。いまや院内の取り組みにとどまりません。研究会を通じて行政と民間がうまく動いています。

 2004年9月、当院の病院祭で、患者さんのご家族である50代の女性から、「延命を望まない場合、それを文書にしておく様式はないのですか」と尋ねられたことをきっかけに、「意思確認用紙」を作りました。経管栄養(胃瘻)や中心静脈栄養(高カロリー輸液)、人工呼吸器装置など、希望しない項目に丸を付けてもらう極めてシンプルな様式でした。その後、09年に改訂し、前文を入れました。この用紙の趣旨や、本人の意思表示が不可能である場合にはご家族の意思を書いていただくこと、変更はいつでも可能であること、強制的なものではないことを入れました。記入方法も変更しました。「希望しない」だけではなく、「希望する」も入れ、さらに看護師長の要望で「病院に一任」も入れました。
 
 そうしたところ、「一任」に丸を付ける患者さんやご家族が最も多いのです。この「一任」をどのように理解するか、様々なご意見があると思います。私は、十分に説明した後の結果であるので、決して意思があやふやなのではなく、「お話はよく分かりました。あとは病院にお任せします」という意思の表明であり、病院に対する1つの信頼の証ではないかと考えています。

 このように、身体拘束廃止や意思確認用紙などを通じて、職員が一つになり、みんなで多くのことを学びながら成長しています。身体拘束廃止では、「私が責任を持つからやろう」と言ったことで、職員は非常に安心したようです。最後は信頼です。がんの告知を望まない患者さんもいます。神経難病で人工呼吸器を装着できない患者さんも多くいます。そういう患者さんを苦しまないように、家族と最期まで会話できることの難しさを学ぶ。死に直面することはとても難しいことです。死に対するとらえ方について職員が成長していく。

 いま、在宅医療の推進が叫ばれています。それは非常に重要なことだと思います。しかし、どうしても退院できない患者さん、ご自宅で療養できない患者さんがいます。そういう方々をしっかり支えていくことも大事だと思います。地域全体を療養病床としてとらえ、病院を活用してもらう時代です。在宅療養中の患者さんに何か問題が発生した場合や、ご家族のレスパイトのための入院を支援する必要もあります。

 人はいろいろな形で死を迎えます。当院では、できるだけ多くの職員で正面玄関から見送っています。4年前までは、亡くなった患者さんを地下の出入り口から見送っていましたが、「それは違うのではないか」と思い、正面玄関から見送るようにしました。事務職の部屋は正面玄関前にありますので、大勢出てきてくれます。事務職員は患者さんと接する機会が少ないのですが、死を通じて患者さんへの役割を感じることができると思います。正面玄関から見送ると、職員も死に対して学びますし、家族もとても喜んでくれます。ご遺体を乗せた車が見えなくなるまで、みんなで見送ります。本人もきっと、「最後まで大事にしてもらった」と思ってくださるでしょう。
 

■ 若手医師、スタッフへのメッセージ
 
 院長室のドアは、常に開けっ放しにしています。隣の部屋は看護部で、コピー機は1台ですので、いつでも顔を合わせることができます。決裁のサインが必要な時だけでなく、「いつでもおいで」と職員に言っています。職員との壁がないように心掛けています。「ノックして入るのではない」ということが大事だと思います。

 楽しくなければ仕事ではありません。仕事は楽しく、趣味も一生懸命にやってほしい。職員がいつも笑顔で楽しく仕事をしていないと、笑顔を患者さんに移せません。ぜひ、楽しさや笑顔を患者さんに伝えてください。職員が不愉快な表情で働いていたら、それは患者さんにすぐに伝わります。ですから、新人職員は、たとえ技術が未熟でも笑顔だけはプロであってほしいと思います。

 当院は、有給休暇の取得率がとても高いのですが、年末などにまとめて取得するのではなく、「休みたい時に休むように」と言っています。私も有給休暇をしっかり取っています。今後も、職員がやりがいを感じるような環境を整備していきたいと思っています。
 

■ 日本慢性期医療協会への期待

 高齢社会において慢性期医療の存在は極めて重要です。しかし、それはイコール入院を意味しません。ある程度入院し、リハビリテーションなどの後は自宅やサ高住、特養などに移していくことが大切です。一方、慢性期病院は退院不可能な患者さんの受け皿になる責任もあります。

 在宅医療や訪問診療、訪問看護・介護、訪問リハビリテーションなどの拡大が望まれる中、当協会は武久洋三会長を中心にとても頑張っています。会長をはじめ、役員、会員、事務局員らの熱心な活動によって、今まで以上に「慢性期医療」というものを世の中に認知させる役割を果たしたことは素晴らしいと思っています。

 今後は、慢性期医療の質が問われます。質向上にはストラクチャーの構築も大切です。当院は、日本医療評価機構の慢性期バージョンと、日本慢性期医療協会の「慢性期医療認定病院」で、それぞれ第1号の認定を受けました。目指すところは「日本の慢性期医療のモデル病院」になることです。まだまだ発展途上ですが、制度改革に翻弄されず、定山渓病院のあるべき姿を追求していきたいと思っています。

 日本慢性期医療協会は、われわれ多くの会員病院の道標としての役割が期待されます。現在、その役割を果たしていると思います。一方、各病院は自院の立ち位置を知る必要があります。今改定で新設された「地域包括ケア病棟」を取ることも大切ですが、自院にできることと、できないことがあります。様々な条件や地域のニーズなどに照らし、自院の立ち位置をよく考えていく必要があると思います。

 介護老人保健施設だけでなく慢性期病院でも患者さんが減っているように感じます。特別養護老人ホームやサ高住などと機能が重複する部分がありますので、今後も減っていくでしょう。そういうなかで、自院の立ち位置を職員に明確に示し、最善の形を目指していくことが大切です。

 私は2004年から副会長を務めさせていただき、10年になります。前会長の木下毅先生も非常に頑張っておられたし、武久会長も非常にアクティブです。当協会名が「日本療養病床協会」であった時代に比べ、「日本慢性期医療協会」になってから、明らかにいろいろな道標になってきたと思います。これからの高齢化を見据えて、とても良い時期に協会の名称を変更しました。さらに多くの会員の入会が期待されます。慢性期病院には、いろいろな種類の病院がありますので、それぞれの立ち位置や方向性を示すような役割を今後も果たしていきたいと思います。(聞き手・新井裕充)
 

【プロフィール】
 
中川 翼(なかがわ・よく)

1967年 北海道大学医学部卒、医学博士
1975年 カナダ、モントリオール、マッギール大学留学
1981年 北海道大学脳神経外科講師
1985年 釧路労災病院脳神経外科部長
1990年 医療法人渓仁会・手稲渓仁会病院・副院長兼脳神経外科部長
1995年 医療法人渓仁会・定山渓病院・院長 現在に至る

日本慢性期医療協会・副会長
北海道慢性期医療協会・会長
北海道病院協会・副理事長
北海道抑制廃止研究会・顧問
日本脳神経外科学会・専門医 他
 

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