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「第20回日本慢性期医療学会福井大会」のご報告(6) ─ シンポ3(終末期)

Posted By 日本慢性期医療協会 On 2013年2月4日 @ 11:25 AM In 会員・現場の声,協会の活動等 | No Comments

 「第20回日本慢性期医療学会福井大会」のシンポジウム3は、「人生の終末期を考える~在宅死vs.施設死の議論の中で」をテーマに行われました。座長を日本慢性期医療協会(日慢協)副会長の中川翼氏が務め、シンポジストとして長尾クリニック院長の長尾和宏氏、いばらき診療所理事長の照沼秀也氏、医療法人社団永生会統括看護部長の安藝佐香江氏が参加しました。各シンポジストのご講演要旨と意見交換の模様をお伝えします。
 

[座長・中川翼氏]
 終末期医療、ターミナルケアをめぐる問題は、毎年、この学会のシンポジウムで企画している。今回は、池端大会長の非常に勇敢なお考えで、「施設死バーサス在宅死」というテーマを取り上げた。活発な議論を期待している。最初は、在宅医療の立場から長尾和宏先生にお願いしたい。
 

■ 長尾和宏氏(長尾クリニック院長)
 

在宅医療の目標は病院も施設も同じ
 

 私は尼崎の下町で在宅医療に取り組んでいる。開業して17年になる。これまで約650人を在宅で看取った。現在、年間約80人を在宅で看取っている。かつては、消化器内科医として病院に勤務していた。本日は在宅医の立場から、「『平穏死がかなう慢性期病院』と『午後から在宅医』の連携」と題してお話ししたい。

長尾和宏氏(長尾クリニック院長) 国は「在宅へ」という方針で、診療報酬も在宅医療に多く付いているが、それだけではなかなか在宅医療の推進は難しい。やはり、日慢協の会員のような病院との連携がなければ、住み慣れた自宅で医療を継続するのは難しいのではないか。

 近年、「平穏死」や「自然死」を扱った書籍がかなり売れている。私も、「『平穏死』 10の条件」という本を書かせていただいた。石飛幸三先生の「平穏死のすすめ」や、中村仁一先生の「大往生したけりゃ医療とかかわるな」などの本を合わせて、100万部以上売れている。一種のブームのようになってきていると思う。

 在宅医療の目標は、病院も施設も同じであると考えている。「患者さんのQOL×寿命を最大値にすること」であると考え、在宅医療に取り組んでいる。
 

病院と在宅では文化が違う
 

 3つの言葉がある。「平穏死」「自然死」「尊厳死」、これらはほぼ同義語として使われている。ただ、「尊厳死」はもう少し広い。私は、延命処置をせずに自然に死を迎えることを「平穏死」ととらえている。

 病院で平穏死しにくい理由は何か。確かに、優れたケアをしている病院がある。そのレベルの高さに感心しているが、急性期病院など一部の病院では、がんのターミナルで延命治療をしている。その理由はいろいろ考えられる。「キュアからケアへ」と言われるが、そのギアチェンジのタイミングの難しさもあると思う。

 医師法21条の潜在的恐怖もある。「医者が延命治療をしなかった」という理由で訴えられるのではないかとの危惧もあるだろう。この21条とごっちゃになる規定として20条がある。医師法20条は、国会でも議論されたように、「24時間以内に診ていれば往診しなくても看取りができる」という規定だ。つまり、患者宅に行かなくても死亡診断書が書ける。24時間以上経過していたら、行って書けばいい。これが20条の意味だ。

 これに対し21条は、「24時間以内に異状死体を見たら警察に届け出る」という規定である。どちらの条文にも「24時間」という文言があるため、これらの条文が混同されている。多くの開業医は「24時間以内に診ていなければ死亡診断書を書けない」という意味であると誤解している。このような誤解があることも在宅死の阻害要因として挙げられる。この誤解をなくさないと、在宅での看取りは進まないのではないかと言われている。

 在宅での看取りの多くは、延命措置をしない自然な形での最期だ。病院でもそうだと思うが、一部の病院ではかなり濃厚な延命措置を行っている。患者さんやご家族が望んだためにそうなったのかもしれない。ただ、こうした現実があることを指摘したのが、先ほど紹介した著書である。病院と在宅では、少し文化が違うように思う。価値観や感覚を共有しないと連携は難しい。

 在宅医療では、診療の質がほとんど評価されていない。また、病院は情報公開が進んでいるが、在宅には密室性がある。良い看取りをしても、病院関係者に知られる機会があまりない。悪いところばかりが病院側に伝わってしまっている面がある。
 

胃ろうをめぐる議論の本質は
 

 延命治療とは、「人工栄養」「人工呼吸」「人工透析」の3つを言うと考える。近年、胃ろうが問題になっており、「胃ろうという選択、しない選択 『平穏死』から考える胃ろうの功と罪」という啓発書を出版する予定だ。

 今年6月、日本老年医学会は「患者本人の尊厳を損なったり苦痛を増大させたりする可能性があるときには、治療の差し控えや治療からの撤退も選択肢となる」、すなわち「胃ろうを中止してもいい」という考えを示した。こういうこともあり、今年は大きな転換の年だったと思う。

 胃ろうには、「ハッピーな胃ろう」と「アンハッピーな胃ろう」がある。多少は食べることができて、元気な笑顔が戻るような胃ろうは「ハッピーな胃ろう」だが、意思疎通ができず、自分の唾液さえも誤嚥してしまうような胃ろうは「アンハッピーな胃ろう」になると思う。こういう議論をすると、ALSの患者さんらが非常に危惧されるので、難病患者さんの胃ろうは「福祉用具としての胃ろう」であり、「延命措置ではない」と私は考えている。

 胃ろうをめぐる議論の本質は、リビング・ウィルがあって、不治かつ末期であっても、植物状態になっても中止が難しいという点にある。アンケートでは胃ろうを中止したケースが約2割あるが、大っぴらにはできず、あうんの呼吸でやっている。ガイドラインがあるが十分に周知されておらず、どのように扱っていいのか分からないのが現状だ。

 諸外国ではリビング・ウィルでの意思表明率が高いが、日本では0.1%にすぎない。ただ、各医療機関における取り組みとして「事前指示書」が普及し始めていると思う。
 

諸外国でも悩む終末期
 

 「日本尊厳死協会」という団体がある。私はその役員を拝命している。1976年に結成され、現在約12万人が加入している。1976年は、病院死と在宅死の割合が逆転した年だ。ご存じのように、現在約8割が病院で亡くなっている。しかし、それ以前は8割が自宅で亡くなっていた時代もある。その後、病院死が増え、在宅死とクロスした年が76年だ。同協会はその年に設立され、リビング・ウィルの啓発活動や、リビング・ウィルの署名を管理している団体とお考えいただきたい。

 最近の報道にもあるように、約120人の国会議員でつくる「尊厳死議連」でいろいろな議論がなされており、もう8年目になる。まだ法律案は国会に提出されていないが、「リビング・ウィルが表明されていた場合に、2人以上の医師が不治かつ末期であると判定したときは、延命治療を差し控えても医師は免責されるのではないか」という考え方で、「患者さんの意思を尊重する法律案」である。A案は、延命治療の不開始。すなわち、胃ろうを入れない。B案は、胃ろうを入れたら中止する。当然、B案で検討が進められている。

 オランダで「尊厳死」と言えば、終末期の患者さんに薬剤を投与して死期を早めることを意味する。これは日本では「安楽死」になる。日本で「尊厳死」と言えば「自然死」のことだが、外国では当たり前のことなので「自然死」を意味する言葉は特にない。オランダの「安楽死」は、日本では殺人罪になる。

 現在、「終の信託」という映画が公開されている。「終の信託」とは、英語で表すとリビング・ウィルで、この映画は「尊厳死」を扱っている。「自然死」に近い。諸外国で言うところの「尊厳死」ではない。医師が殺人罪に問われた川崎協同病院事件がモデルになっている。

 イギリスやフランスでも、この問題については悩んでおり、私も6月に「死の権利・世界連合大会」で発表したり、いろいろな勉強をしたりしてきた。諸外国ではさまざまな対応をしており、悩んでいるのが現状だ。日本ではリビング・ウィルが法的に全く担保されていない。一方、フランスでは「レオネッティ法」が2005年に制定され、延命中止の手順が明記されている。緩和ケア体制の整備と両輪でやっている。
 

在宅と施設との温度差はない
 

 「終末期」には3つの衰弱パターンがある。まず、「最終急降下型」の末期がん。最後に急に落ちる。次に、老衰や認知症などの「長期緩慢低下型」、そして3つ目は臓器不全症や神経難病など「長期変動降下型」。このうち、末期がんは急にストーンと落ちるので、当院では約97%が在宅で看取っている。しかし、2と3のパターンは在宅での看取り率がその半分、4割程度に落ちる。

 認知症や臓器不全症の患者さんは介護負担があるので、慢性期病院との連携がなければ在宅での看取りが難しい。近年は、病院や施設でも「元気なうちから話し合っておこう」という動きが進んでおり、在宅と施設との温度差はなくなってきている。

 2012年度改定で、在宅療養支援診療所に機能強化型が加わったため、3つの類型になった。往診料は3倍ぐらい違っており、「一物三価」になっているという問題点がある。また、在宅療養支援病院と一部競合しているので、在宅療養支援診療所と在宅療養支援病院とどのように役割分担するかという問題もある。

 「良い在宅医」「悪い在宅医」がある。病院からすれば、在宅医の悪い所しか見えず、在宅医からすれば病院での「平穏死」を見ることができないので、お互いの悪い所ばかり見ていて誤解している部分もあるのではないか。

 現在は、「在宅医療」と言うよりも、「地域包括ケアシステム」の中での在宅死、病院死ということになるだろう。そこには行政やNPOなどもどんどん加わり、「集い場」でフラットに話し合っていく時代であると考えている。「エンド・オブ・ライフケア」の感覚を共有し、「地域包括ケアシステム」の中で、しっかりと連携していけたらいいと考えている。[→ 続きはこちら]
 


 

 

■ 照沼秀也氏(いばらき診療所理事長)
 

施設死と在宅死、「どちらでもいい」
 

 私は37歳まで外科医として病院に勤務していた。その後、「介護力強化病院」に移り、療養型病院の質向上などに取り組み、在宅医療に関わってきた。施設の看取りも在宅での看取りも経験した。施設死と在宅死、「どちらでもいいのではないか」というのが率直な意見だ。きちんとしたケアを提供すれば、どちらでもいい看取りができると思う。

照沼秀也氏(いばらき診療所理事長) ただ、施設死が8割で在宅死が1割という数字は、真剣にとらえなければいけない時期に来ている。施設はこの40年間、いろんなトライアルを積み重ねながら質の向上を図り、地域の方々から信頼を得られるケアを提供している。「最期はあの病院で看取ってもらおう」と思われている結果が、この数値に表れている。

 在宅ケアに熱心に取り組まれている先生がいる地域はいいが、在宅ケアが選択の土台にない地域もたくさんある。そういう地域に、いかに在宅ケアを根付かせていくのかが課題であろう。
 

地域の信頼を失うような在宅ケアをなくす
 

 驚くようなケースもある。在宅で朝10時ごろにお亡くなりになり、診療所の主治医に電話したら「外来が忙しいので、手が空いたら見に行く」という返答があり、午後1時過ぎに来てくれたケースもある。主治医が来るまでの2時間あまり、家族はどうしていいのか分からずオロオロしていた。

 このように、とんでもない話が在宅ケアには多くある。こういうケースの背景を1つひとつ明らかにして、地域の信頼を失うような在宅ケアをなくすためにはどうしたらいいのかを多職種も交えて真剣に考えなければいけない時期に来ていると思っている。

 超高齢社会を迎え、医療経済的な観点などから国は在宅ケアを進めているが、はしごを外された時に、地域の方々の選択肢に在宅ケアがあるのかどうかが問われる。いま、在宅ケアの在り方をきちんと考えておかないと、後に大変なことになるだろう。
 

在宅チームを日本中に広げる
 

 施設ケアがたどった40年間を在宅ケアがたどる必要がある。官民一体となって勉強会などを立ち上げ、どういう在宅ケアならば地域の方々の信頼を得ることができるのかを考えるべきだろう。医者だけではどうしても自己満足に陥るので、研究者と一緒に質の向上を考えていく必要がある。「いい看取りができた」と医師が判断しても、それが一般性、普遍性を持つためには研究が必要になる。

 在宅ケアは、1人の医師では多様な要請に応えられない。やはり多職種が連携して患者さんやご家族、地域に対応していくことが必要になる。もちろん、主治医と患者さんとの間における「精神性」は大事だが、やはりチームがないといいものはできない。医療は、いかに良いチームをつくるかが大事で、良いチームをつくった所に成功があると思っている。

 在宅ケアについては、老人の専門医療を考える会(老専)と日本慢性期医療協会(日慢協)が最高の団体であると思う。在宅ケアについて真剣に議論する場を、老専と日慢協が中心になってつくっていくことが望ましい。世界に冠たる施設ケアをつくりあげた老専と日慢協が、在宅ケアの質を向上させるためにもう一肌脱いでもらいたい。事務系のスーパースターと研究者らが加わり、心ある在宅ケアのチームを日本中に広げていくことが理想的ではないかと思っている。
 

■ 安藝佐香江氏(医療法人社団永生会統括看護部長)
 

自分自身の死として考える
 

 永生会はいろいろな施設を持っている。私たちの病院や介護老人保健施設、訪問看護ステーションなどで、どのような看取りが行われているかについて、事例を通してみなさんと共に考えたい。

安藝佐香江氏(医療法人社団永生会統括看護部長) 「終末期」や「看取り死」とは、私たちにとって、患者さんやご家族にとって、どのようなものであるのか、何を考えて行動していくべきか。「医療」であるのか、「介護」か「看護」か。「場」であるのか「人」なのか、こういったことを医療人として考えていかなければいけない時期に来た。

 1951年には、ほとんどの人が自宅で亡くなっていたという時代から、2005年にはほとんどの人が医療機関で亡くなる時代になった。2050年には、約166万人が亡くなる。自宅で最期まで療養することが困難な理由として、「介護する家族に負担がかかる」「急変した時に不安がある」などの回答が多くを占めているとの調査結果もある。こうした状況の中で、私たちは自分自身の死がどうあるべきかを考えていかなければいけない。
 

病院、在宅、いろいろな看取りがある
 

 終末期の看取りはどのような様子なのか、事例を通してお話ししたい。みなさんが現場で経験している状況とほぼ一致しているのではないかと思う。永生会には訪問看護ステーションが4つあり、その所長からいろいろな話を聴いてきたのでご紹介する。

 例えば、胃がんの78歳の男性。妻と二人暮らしで、元気な時は自分の事を自分でしていたが、胃がんが進行して輸血が必要な状況になったので、「入院したほうがいい」とクリニックで言われた。しかし、この男性は「入院するのはいやだが、輸血はしたほうがいい」と判断し、自宅から歩いて約10分の場所にあるクリニックで輸血を受けることにした。クリニックのナースは心配でたまらず、自宅まで付き添ったという。

 その後、食事が取れなくなり、点滴500ccを1日1本実施していたが、最期は永生病院に入院して永眠した。この事例では、訪問看護ステーションやクリニック、病院との連携がうまくできたと思う。

 事例2は、慢性呼吸不全で在宅酸素をしている84歳の男性。ADLは自立していたが、夜間に突然、訪問看護ステーションに緊急コールが入った。妻は、「主人が呼吸をしていない。トイレに行った後にベッドに倒れ込んだ」と狼狽している。訪問看護師がすぐに自宅に向かい、洗面器に熱湯を張って、ラベンダーで芳香浴をして、部屋の空気を落ち着かせた。

 訪問看護ステーションのナースは、妻に「誰の責任でもないのですよ。いいタイミングで発見できたのは、奥様がそばで寝ていたおかげですよ」と優しく声をかけた。そして、これからやらなければいけないことをゆっくり相談した。

 事例3は、多発性骨髄腫で独居の78歳男性。「どうしても退院させてくれ」という本人の強い要望のため、ケアマネジャーと相談してヘルパー中心のプランを組んで自宅に帰った。

 全身の痛みをコントロールする必要があったため、クリニックの主治医と連携した。経済的な援助が必要な男性だったためスタッフらが支援物資を集め、在宅療養できる環境を整えた。83歳の姉が泊まりに来た翌日、呼吸停止してお亡くなりになった。その時は、スタッフらが続々と集まり、本人を見送る準備を整えた。

 事例4は、グループホームでの看取り。認知症で要介護度5の92歳女性。車いすで入所したが、ADLが改善して要介護度が3になった。何度か発熱したこともある。ご家族が、「治って元気になるなら、病院に入院して治療してほしい」と希望したため、永生病院に3~4回、短期入院を繰り返した。

 最期が近づき、ご家族は覚悟を決め、「このままグループホームで亡くなりたい」との希望があり、経口摂取が2~3口になったが、点滴500ccのみ皮下注した。入居者の多くが見舞いに来て、ご家族とも雑談され、みんなで笑いながら楽しくお話をされた。そうした和やかな雰囲気の中で永眠した。ご家族の心の準備もできていて、周囲の入居者も理解しており、落ち着いて見送ることができた。

 在宅での看取りについては、訪問看護師によれば「何があっても家族や介護者の責任ではない」ということを最初に明確にしておくことが必要だという。「突然亡くなることがあるので、覚悟が必要だ」と、あらかじめご家族に話しておく。在宅で看取ることが決まっていたら、すぐに救急車を呼ぶのではなく、まず訪問看護師に必ず相談するように伝えておく。

 事例5は介護老人保健施設での看取りで、認知症の71歳男性。脳梗塞のため嚥下困難、痰の吸引も頻回だった。永生病院に入院したが、ご家族は「胃ろうや、その他の治療を希望しない」ということだった。すぐに介護老人保健施設に戻り、1日1本の点滴を実施して様子を見ていた。カンファレンスを行い、家族とスタッフとの会話を増やし、不安の除去に努めた。看護師が付き添って自宅に戻り、その数日後に永眠した。

 事例6は、病院での看取り。若い患者さんで、「とにかく食事を取りたい」「痛いことはいやだ」「できる事は自分で行いたい」というご希望があった。ご家族も、「できるだけ口から食べさせたいが、苦痛は緩和させてほしい」というご希望だった。

 本人やご家族も参加してカンファレンスを行い、病状を本人に説明した。末期であるとの説明は避けたが、病状をよく説明したことにより、本人の様子がだいぶ落ち着いた。本人はIVHに同意したが、施行当日に「やっぱりやりたくない」と拒否したため、施行しなかった。STや栄養士らは食形態を変更して、本人の「少しでも食べたい」という希望を尊重して、いろいろと工夫した。そして、2週間後に永眠した。

 一方、88歳の心不全の女性は入浴した後に急変して、すぐに亡くなった。こうした時、看護師は「ご家族が受け入れられるか」を気にかける。1か月後、夫が挨拶に来て、「本当によくしてくれました」と笑顔で話された時に、看護師は「笑顔だったが、本当に心の準備ができていたのか気がかりだ」と振り返る。残された家族に対するグリーフケアが非常に重要であると、常々思っている。

 いろいろな取り組みが、施設でも在宅でも行われている。その人らしい生き方や死に方を実現して、援助できるような取り組みが重要だ。個別性を重視すると、いろいろな取り組みが必要になる。どこまで対応可能なのか、柔軟に行っていきたいといつも思っている。多職種が連携し、互いに理解することが必要であると思う。
 

高齢社会を乗り切る道しるべは現場にある
 

 延命治療について話したい。高齢者ケアの意思決定プロセスに関するガイドラインが出ているが、胃ろうに関してはいろいろな事例がある。医師から「胃ろうを造設しましょう」と言われ、承諾書もつくり、本人もご家族も納得していると思っていたところ、当日になってご家族が「やっぱり胃ろうをつくるのをやめてください」と言ってきたケースもある。ご家族はどうしたらいいのか分からず、迷っているケースがかなりあると思う。

 例えば、こんなケースがあった。急性期病院で胃ろうをつくり当院に転院してきた患者さん。ご家族が、「こんなに長く経管栄養を持続して、もうかわいそうだからやめてほしい」と訴えてきた。こうした場合には、院内の倫理委員会で検討している。

 2011年、胃ろう造設について当院の看護師130人にアンケートを取ったところ、病棟の種別により結果がかなり異なっていた。長期療養病床のスタッフは、「胃ろう造設を望まない」という回答が多かった。一方、回復期リハビリ病棟のスタッフは、「食べながら胃ろうをつくって、結局胃ろうがなくなったり、完全に食べられるようになるのならば、胃ろうを造設してもいい」との意見が多かった。

 また、「医師の説明により選択が変化する」との回答も多かった。時間をかけて話し合いながら決定していくことが重要であると思う。終末期や看取りでは、チーム医療の必要性を感じる。患者さんやご家族の個別性、自己決定権に配慮した全人的なケアが必須であり、患者さんのために良いケアを提供するためには、すべての職種が連携して協力しあう体制が必要だ。終末期医療における取り組みは、精神的・身体的苦痛の軽減を重視していく必要がある。

 終末期の問題は、多くのスタッフにとって迷いもあるし、葛藤もある。ただ、多くの経験値はやがて標準化され、新たな考えや行動が生まれていくものだと考えている。未曾有の高齢社会を乗り切る道しるべは、やはり現場が持っている。[→ 続きはこちら]
 


 

 

■ 中川翼氏(日慢協副会長、定山渓病院院長)
 

人権と尊厳は守られているか
 

 「定山渓病院における取り組み」というテーマで、病院の立場から話す。最近、使われている言葉として、「尊厳死」(日本尊厳死協会)、「平穏死」(石飛幸三先生、長尾和宏先生)、「老衰死」(金丸仁先生ら)、「自然死」(中村仁一先生ら)、「満足死」(市民側)などがある。これらの言葉が持つ共通の問いかけは、「認知症や意識障害ら、特に高齢者に対する延命治療(胃ろうなど)が適切でしょうか」ということ、そして「人間の人権と尊厳は守られているでしょうか」ということだと考える。

中川翼氏(日慢協副会長) 私の考えとして、主に次の3点を挙げたい。すなわち、▽人間の考え方は多様であるため、患者さんの意思やご家族の意思の確認が求められる、▽医療従事者も患者・家族の意向を尊重したケアが求められる、▽そのケアは多職種で共有されていることが必要である──ということである。

 終末期の施設(病院)ケアの優れているところは、ご家族の介護負担が圧倒的に少ない点であろう。すなわち、いろいろな職種が関わってくれるし、チームで関わってくれる。医師もすぐそばにいて、看護職や介護職も多く、リハビリテーションもやってくれる。また、栄養をとる方法がいろいろあるし、トイレや排泄の介助をしてくれる。車いすが使えるため、トイレが使いやすいことや、保清をしてくれたり、褥瘡の予防をしてくれたり、といった点が挙げられる。

 一方、終末期の施設ケアの劣っているところとして一般的に言われるのは、「なじみの環境ではない」ということ。また、「本人や家族の意思、意向をどこまで尊重してくれるのか不安である」との声も聞く。「お金が掛かる」という不安もあるかもしれない。

 そこで当院では、「終末期の施設ケア(入院)の長所を生かし、短所を補っていくにはどうしたらいいだろうか」という観点から取り組んできた。いまだ進行形だが、終末期との関わりの中で悩みながらも前向きに取り組んできた当院の姿を述べたい。
 

終末期について多職種で共有
 

 当院では、1997年4月から99年3月末にかけて、病院全体での「役職者研修」を行い、99年4月からは各病棟で「ターミナルケアカンファランス」や「死亡後カンファランス」を行ってきた。まず、「役職者研修」について説明する。

 「役職者研修」は、「医師と看護師長との間で終末期ケアの考え方が違わないだろうか」という問題意識に基づき、幹部医師と幹部看護職で2年間勉強した。具体的には、毎月に1回のペースで開催し、亡くなった方の事例検討を中心に行った。

 そこでは、看護職から医師に対して「先生は私たちに相談しないで自分だけの考えで物事を進めるので、とても困る」とか、「高齢者の終末期への対処が延命治療に走りすぎているのではないか」とか、「ご家族ともっと話し合ってほしい」などの意見が出された。研修を終えた参加者からは、「病院全体で取り組んだのは良かった」との意見が多く聞かれた。この研修は、テーマを変えながら現在も継続している。

 その後、院内で「こうした研修を各病棟でもやってほしい」との声があったため、99年4月から「ターミナルケアカンファランス」「死亡後カンファランス」を開始した。現在、8個病棟すべてで実施している。終末期に近づいていると考えられたときには「ターミナルケアカンファランス」を、死亡後2週間以内に「死亡後カンファランス」を行っている。出席者は、担当医師や看護師長、看護職、介護職、リハ療法士(PT、OT、ST)、管理栄養士、MSW、看護部長、薬剤師で、時間は15~20分。院長である私はほとんど毎回出席している。

 その結果、終末期にある患者さんの状況について、多くの職種で共有できるようになった。特に、リハビリテーション療法士が参加したことが大きいと思う。本人のみならず、ご家族にも病院の対処が共有されており、安心して終末期を迎えていると感じる。
 

患者・家族の意思確認の方法は
 

 患者さんやご家族の意思確認をどのようにしたらいいだろうか。2004年9月、の定山渓病院の病院祭で、患者さんのご家族(50代女性)から、こう言われた。「この病院に入院している患者の家族として、これ以上の延命を望まない場合、それを文書にしておく様式はないのだろうか」。

 当院では、医師と看護職を中心に、ご本人・ご家族への病状説明や話し合いを適時行い、「ターミナルケアカンファランス」でも、多くの職種と情報や方針の共有化を図ってきたが、私どももこうした用紙の必要性を感じていた。早速、私と看護部長で検討し、「意思確認用紙」を作った。これは、ご本人が希望しない項目に丸を付けてもらうという、極めてシンプルなものだった。希望しない処置として提示したのは、①経管栄養(胃ろう)、②中心静脈栄養(高カロリー輸液)、③人工呼吸器装置、④心肺蘇生、⑤点滴、⑥輸血、⑦酸素、⑧その他──の8項目。

 この用紙は、2004年9月から09年3月まで、4年6カ月にわたり使用した。この間、106人のご家族が記入し、本人署名は0人。ご家族の署名は、1人だけが90%で、ご家族2人が記入したのは8%だった。ご家族が希望しなかった項目として、最も多かったのは「人工呼吸器装置」、次いで「心肺蘇生」であり、これらは90%以上のご家族が希望しなかった。「輸血」は約70%が希望しなかった。「経管栄養(胃ろう)」と「中心静脈栄養(高カロリー輸液)」は約50%が希望しなかった。なお、既に他院で胃ろうをつくった人も含まれている。一方、「点滴」については、希望するご家族が多かった。

 その後、この「意思確認用紙」を改訂することになった。まず前文を入れた。この用紙の趣旨や、本人の意思表示が不可能である場合にはご家族の意思を書いていただくこと、変更はいつでも可能であること、強制的なものではないことを入れた。また、記入方法も変更した。すなわち、「希望しない」だけではなく、「希望する」も入れた。さらに、看護師長の要望で、「病院に一任」も入れた。事後報告の処置も入れ、ご家族署名は複数記載を可能にした。すべての項目に回答しなくてもいいことを明記して、記入しやすいようにした。

 新しい「意思確認用紙」の前文を紹介する。次のように記載した。
 「近年の国民調査によりますと、治療を尽くしても現在以上の改善が見込まれな
い、いわゆる人生の最期が近くなっていると医学上判断された場合、それ以上の単なる延命治療を希望しない、という考えも少なくないことが報告されています。私共も、これまで比較的タブー視されていた終末期に対するご本人・ご家族の治療に対するご要望も、医療上許容可能な範囲であれば、充分尊重することが大切であると認識しつつあります。
 このような意思のご確認は、本来、ご本人にお聞きするのが筋道であると考えております。しかし、ご本人がお元気で、記入可能なうちに意思表示されている方は、未だ極めて少ないのが実情です。厚生労働省で作成した終末期のガイドラインでも、ご本人の意思を確認できない場合は、ご本人の元気なときの意思を考慮しつつ、ご家族の意思を尊重することを勧めています。
 以上の考えの下に、ご本人・ご家族のご意向をお聞きする次第です。無論、ご記入はご自由です。また、一度この用紙に記入した場合でも、お申し出いただけば、変更はいつでも可能ですし、適宜、ご相談しながら進めさせていただきます。
 ご本人が入院されている病棟の担当医師や看護師長が、この用紙をお渡しすることがあると存じます。不明な点はご遠慮なくお聞きください。なお、この用紙は、お互いの、日頃のお話し合いの内容の再確認といえるものであり、ご記入、ご提出は、決して、強制的なものではないことを重ねて申し添えます。」

 以上のことを用紙の左側に書いて、右側には「終末期になったときの私どもの希望」として、「希望する」「希望しない」「病院に一任」のうち、該当箇所に丸を付けもらう形式にした。質問項目に挙げた医療処置は、①経鼻(胃ろう)チューブを介した栄養摂取、②中心静脈からの点滴(栄養)、③上(下)肢からの点滴(輸液)、④気管へ挿入したチューブを介した人工呼吸器装着、⑤心肺蘇生(心臓マッサージ等)──である。加えて、「上記以外の医療処置(痛みの軽減、鎮静、酸素、輸血、補助呼吸等)については、適宜、ご報告させていただきます」と書き添えた。そして、ご家族の署名欄を複数にした。

 この新しい「意思確認用紙」は2009年4月から使用し、12年3月末までの3年間で延べ120人が記入、そのうち2回記入した方が4人いる。本人署名は4人で、ご家族の署名は「1名が46%」、「2名が50%」など。ご家族の署名欄を複数にすると、記入しやすくなると感じた。

 その結果を見ると、「経鼻(胃ろう)チューブを介した栄養摂取」は、「希望する」「希望しない」「病院に一任」がそれぞれ20~30%強で、ほとんど同じぐらいの割合だった。「中心静脈からの点滴(栄養)」は、「希望する」「病院に一任」が35~45%で、同じぐらいの割合だった。「上(下)肢からの点滴(輸液)」も、「希望する」「病院に一任」が40%強で同じぐらいだった。これに対し、「気管へ挿入したチューブを介した人工呼吸器装置」は、約70%が希望しなかった。

 「病院に一任」をどのように理解するかについては、いろいろなご意見があると思う。私は、十分に説明した後の結果であるので、「お話はよく分かりました。あとは病院にお任せします」という意思の表明であり、これは1つの信頼の証ではないかと考えるようにしているが、いろいろなご意見があるところだろう。
 

「意思確認書」に付加する優しさや寄り添い
 

 事例を1つ紹介したい。アルツハイマー型認知症などがある90代女性。2006年8月、「日本尊厳死協会」の文言(尊厳死の宣言書)を自筆で書き、09年8月に入院後、ご家族が提出した。11年2月、当院の「意思確認用紙」に夫と長男の2人が署名して提出した。本人の署名はない。

 それによると、「経鼻(胃ろう)による栄養」と「人工呼吸」は希望せず、「中心静脈点滴(栄養)」「心肺蘇生」は病院に一任、「点滴」は希望した。本人の意思表示は06年8月にあったが、あまりに時間が経過しているため、ご家族に再確認した。11年2月にご家族からの意思表示があり、その直後に「ターミナルケアカンファランス」を実施し、積極的な延命治療は避ける方針になった。11年6月、他界された。

 「死亡後カンファランス」で、あるPTは「家族から『しっかりやってくれた』と感謝された」と話し、MSWも「ご家族から感謝の言葉が聞かれた」と振り返った。その中で、私が印象に残っている看護職の声がある。

 「末梢血管からの点滴が困難となった時点で、経鼻から細いカニューレで水分補給を開始したが、最後は義歯が合わない程やせてしまった。経口的に食事がとれなくなった時点で、経鼻からの栄養を家族と検討できなかったのだろうか。今後は意思確認書があっても、その時々で話し合いを持ち、本人にとって一番良いと思われる終末期を迎えてもらうよう努力したい」。

 つまり、「意思確認書」などは1つの枠組みではあるが、そこに付加する優しさや寄り添いがとても大切であることを教えられたカンファランスであった。

 以上をまとめると、1997年4月~2012年3月末までの15年間で、「役職者研修」を17回、「ターミナルケアカンファランス」394回、「死亡後カンファランス」は658回実施した。改訂前の「意思確認用紙」に記入したのは106人、改訂後の「意思確認用紙」に記入したのは、延べ120人だった。

 当院では、「理念と基本方針」の第1条に、「人権と尊厳を重んじ、心の通ったケアをいたします」と宣言している。当院では多くの職種が関わっており、ご家族の考え方を弾力的に受け止め、きめ細かく寄り添うケアに努めている。「ターミナルケアカンファランス」、「終末期意思確認用紙」、「死亡後カンファランス」の3つの枠組みを大切にしている。そこに、職員らの優しさや寄り添いなどソフト的な要素を加えている。今後も、職員一丸となって真摯に、誠実に取り組んでいきたい。[→ 続きはこちら]
 


 

 

■ パネルディスカッション
 

[中川氏]
中川翼座長 フロアーからご質問があればお願いしたい。
 
[静岡県・女性]
 現場がすごく積極的に動いているという印象を受けた。現場が生き生きとケアできるような組織づくりのために努力していることがあれば、教えてほしい。
 
[安藝氏]
 お互いの現場をお互いが知らなければいけないと思う。同じ法人内でも、病院の看護職が訪問看護を知らなかったり、何をしているのかを全然知らなかったりすることもある。病院のナースが、1日でもいいので訪問看護の現場を見に行くとか、逆に訪問看護師が病院を見に行くとか、互いの現場を知るということが一番大事だと思う。
 
[理学療法士の男性]
 中川先生は、「リハビリスタッフが『ターミナルケアカンファランス』などに参加したことが大きい」と述べた。そう考えた理由や、リハスタッフに求められることなどをお聞かせいただきたい。
 
[中川氏]
 私はリハスタッフについて、「患者さんが元気な時だけケアする職種ではない」と考えている。患者さんの状態がだんだん衰え、訓練室に行けなくなった場合のベッドサイド等々を含めて、お亡くなりになるまでの経過を知ってこその病院職員であると考えているので、私はリハスタッフにも積極的に参加することを求めてきた。

 その結果、リハ職も終末期に対して何らかの関わりを持つようになり、とても喜んでいる。リハの役割が終わっても、病室を訪ねてご家族とお話ししたり、本人に声をかけたりしながら、個人的にも関わりを持つようになった。とてもいいことだと思っている。
 
[岡田玲一郎氏(社会医療研究所所長)]
 一般市民の方々は、「事前指示書」などをあまり知らないので、どうしたらいいのか。例えば、インターネットの「食べログ」みたいに、そのサイトに行けば説明してくれるとか、そういう取り組みを長尾先生はされているのではないだろうか。
 
[長尾氏]
 リビング・ウィルを知らない方が多いかもしれない。「口頭ではなかなか分かりづらいことがあるので、何らかの文書に残したほうがいい」ということを講演会などで説明している。
 
[和歌山県・男性]
 「意思確認用紙」について、法的な根拠はあるか。「成年後見制度」などを考えると、家庭裁判所への申請などが必要になるのではないか。
 
[中川氏]
 「意思確認用紙」は、患者さんのご家族の希望で始まった。患者さん側にすれば、「この病院はどんなことをしてくれるのか」ということを、口頭だけではなく文書で確認したいという希望があると思う。

 お話しした結果を文書で確認することは必要であり、夜間や週末はスタッフが交替するので、情報を共有する意味もあると考えている。ご家族も終末期について考えていただきたいということであり、これを法的にどうこうするという意味は全く考えていない。
 
[和歌山県・男性]
 ご家族がいない患者さんや、ご家族がいても患者さんに関わりたくないという場合はどうか。非常に孤独な患者さんで、しかも認知症などで自分の症状を判断できないような場合には、基本的には「成年後見制度」などによるのではないか。そうすると、成年後見人は「病院にお任せします」ということになるのではないか。
 
[中川氏]
 認知症で、親戚などが全くいない患者さんもまれにいる。そういう場合、弁護士に依頼して親戚を捜していただくと、どこかにいらっしゃることが多い。そして、「こういう治療をしている」ということをご了解していただいたりしながら進めている。

 医療に関しては、「成年後見制度」はあまり有効とはされていないと思うので、ご家族や親戚などに対する説明ということしか、現在のところ方法はないのではないか。
 
[和歌山県・男性]
 できれば、法的な制度設計が求められてもいいのではないかと思っている。
 
[中川氏]
 その通りだと思う。
 
[在宅療養支援診療所の男性]
 長尾先生にお尋ねしたい。「24時間以内に診断していれば、往診しなくても死亡診断書が書ける」との説明だが、その場合、最終死亡確認や死亡時刻はどうなるのか。
 
[長尾氏]
 医師法20条は昭和24年の法律で、離島や無医村などを想定した法律だと思う。現在は、往診しないことはないと思う。医師法20条は、「医者は診ないで死亡診断書を書いてはいけません。ただし、24時間以内に診ていればこの限りではない」と書いてある。

 照沼先生は、「3時間も待たせた医者もいて、とんでもない」とおっしゃったが、実際にはそういうこともある。その場合の死亡時刻は推定になる。在宅ではいろいろなケースがあり、常に「推定時刻」になる。ご家族との話し合いで決まる。「実態に一番近い時間を書いていい」ということになっていると思う。
 
[中川氏]
 24時間を超えて亡くなった場合、その疾患であると想像される場合も当然、その患者さんを見に行くと考えていいだろうか。
 
[長尾氏]
 その通り。異状死の可能性があれば、警察に届け出る必要がある。しかし、その疾患で亡くなったと医師が判断すれば、死亡診断書を書いていい。
 
[男性]
 胃ろうの中止についてお尋ねする。家族からどのぐらい要望があり、どのぐらい中止したことがあるか。
 
[安藝氏]
 胃ろうの患者さんは多く、各病棟に10人ぐらいいる。その中で、完全に中止した例はないが、「中止してほしい」との要望があって倫理委員会で話し合ったケースは、私の記憶では1例ある。それは、完全に中止したというよりも、少し減量したという形にした。多職種からいろいろな意見が出たが、ご家族の意向を踏まえて減量した。
 
[男性]
 「胃ろうをやめたほうがいい」と思われる症例はあったか。
 
[安藝氏]
 胃ろうに限らず、「点滴などもやめてほしい」という要望が出るケースもある。ご本人が点滴を希望しなかったので、点滴をしなかったという事例はあった。これは、ご本人の意思だった。

 点滴などを減量することについては、完全にやめてしまうことが難しいので、量的に減らしていった。また、中心静脈栄養法(TPN)を希望しない患者さんのケースで、末梢からの点滴が入らなくなった時期があり、皮下注で水分を少し補給して対応したこともあった。
 
[男性]
 やっていることが全く同じなので安心した。
 
[都内クリニックの男性]
 「サービス付き高齢者向け住宅」(サ高住)で看取りをしている。約8割をこの住宅で看取っている。最近、従来の看取りと変わってきていると思う。私自身、かつて病院で看取っていた時と、雰囲気が大分違う。そこでお尋ねしたい。どういうお言葉で看取りを行っているか。
 
[長尾氏]
 「サ高住」で8割とはすごい。びっくりした。私も在宅での看取りをしているが、病院での500人と在宅での500人は全く違う。泣いたり、悲しんだりするのは当然だが、在宅での看取りは、何かをやり遂げたような、介護した後の達成感、泣き笑い、というような感じで、非常に穏やかな看取りをしている。
 
[照沼氏]
 私どもの診療所では、年間約150人の看取りをしている。いろいろな看取りがある。例えば、ご親戚が多い患者さんの場合で、30人ぐらい集まって看取ったこともある。ひっそりしたお看取りもある。

 いろいろなお看取りがあるが、大切なことはそれまでのプロセスだと思う。いかにご家族との信頼関係をつくるか、患者さんに慕われるか。ご家族が、「この医療スタッフのチームならば、安心してお任せできる」と判断して、お看取りになるのだと思う。精神的な1つの柱をつくっておかなければいけないと思う。
 
[安藝氏]
 毎日ご面会に来ているご家族には、「毎日ご面会にいらっしゃって頑張りましたね」という一言をおかけすることはよくある。
 
[木田雅彦氏(福島寿光会病院院長、日慢協理事)]
 「胃ろうをやらない」というご家族がいる。その一方で、「中心静脈栄養はやる」「点滴はやる」と言う。何をもって「延命」と言うのか、よく分からない点がある。

 「腸が使える間は使ったらいい」という考えも、私は理解する。腸が生きている限りは、プラス延命があるということにもつながるのではないか。

 「意識がない」ということだけをもって生命を判断していいのか。もし、「治療をやらない」と言うのであれば、「点滴さえもやらない」というのが整合性あるだろう。しかし、「経管栄養はやらないが、点滴はやる」ということはどうだろうか。国民のみなさんに意見を発信する際には、その辺りのことも考えながら、きちんと説明する必要がある。

 私は、照沼先生のお考えが一番受け入れやすい。家族はさまざまであり、日本の文化がある。欧米から持ってきたものが、必ずしも日本に合うかどうかは分からない。
 
[中川氏]
 そうした点も含めて、これから長い月日をかけて考えていかなければならない。シンポジストの先生方も、まだまだ話し足りない部分があろうかと思うが、そろそろ終わりにしたい。

 私は、「在宅死vs.施設死」というタイトルを見た時、「病院はもっとこうしてくれ」などと、かなりバトルになるかと思ったが、意外にもお互い謙虚だった。お互いを知り合うということがやはり重要ではないかと感じた。長尾先生もご著書で書かれているように、「在宅医療が困難になった場合、良い療養病床に入れたい」というお考えのようなので、今後も密接な連携を取って進めていかなければならないと感じている。

 地域全体を療養病床と考え、その中に病院もあり、在宅医療もあると考えていくのが、これからの私どもにとって大事なことではないかと思っている。 [→(7)はこちら]
 



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