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【第29回】 慢性期医療リレーインタビュー 照沼秀也氏

Posted By araihiro On 2013年7月15日 @ 1:50 AM In インタビュー,会員・現場の声 | No Comments

 「在宅医療は新しい日本人の価値をつくることができる。日本的な医療の価値をつくることができる」と話すのは、医療法人社団いばらき会・いばらき診療所理事長の照沼秀也先生。茨城県内を中心に在宅医療に取り組んでいます。余命2週間の在宅患者さんのベッドを家族で取り囲んで酒盛りをして、まるで「居酒屋」のように最期を過ごした経験などを振り返り、「日本の文化に基づいた日本の医療を在宅医療でつくっていきたい」と話します。
 

■ 医師を目指した動機
 

 私はあまり立派な動機で医者を目指したのではなく、妹のダウン症を治したいと思ったのがきっかけです。6歳下の妹です。幼い頃から身体が弱かったので、私が医者になれば病気になった時にすぐ診てあげられるだろうと思いました。病院に行って長い時間待つのはかわいそうだし、何かあった時にちょこっと診てやれたらいいと、そんな単純な動機で医者になったわけです。難しい手術をするとか慢性期医療に携わるとか、そういう大きなテーマは当時の私には全くありませんでした。「妹を診てあげたい」という、実に家庭的な目標でしたので、小さな医者をやれればいいと思っていました。
 
 父は胸部外科医で、結核の患者さんを診ていました。慶應を卒業してインターンを終えた後、候補の病院が23ぐらいあったらしいのですが、競争が嫌いな性格のため、当時は誰も行きたがらない結核の療養所に行ったそうです。それが茨城の国立療養所晴嵐荘病院(現・国立病院機構茨城東病院)です。茨城という場所は慶應の医師たちには人気がなかったようですが、父はその“ハズレくじ”にとても満足していたと聞いています。私も父のように、のんびりと医者をやれたらいいなという気持ちで大学に少し残っていたのですが、尊敬する教授の退官を機に、先輩と一緒に「どこか田舎で医者をやろうか」ということになり、現在に至っています。ですから、私にはあまり立派なお話はできません。

 私は医者の息子ですが、家計は裕福ではなく、子どもの頃に自転車をなかなか買ってもらえなかったことをいまだに覚えています。父は65歳の定年まで国立病院の勤務医をやっておりましたので、医者という職業は果たして金銭的に恵まれた職業であるのかどうか、あまり実感がないまま大きくなりました。父は「今度のボーナスが出たら自転車を買ってあげるよ」と言ってくれたのですが、結局、父は自分のオーディオを買ってしまって自転車には回ってきませんでした(笑)。ですから、ずっと国家公務員をやっていた父という印象です。

 私が小学校に入った頃、妹がダウン症という病気であると知りました。当時はそういう子が通うための小学校がなかったので、一般の小学校に通ったところ、いろいろな嫌がらせを受けて帰ってきました。障害を持った子どもというのは、普通のお子さんにとっては奇異に映るのでしょう。子どもたちに悪気はないのでしょうが、からかいの対象となって、悪ふざけをされました。妹が学校から帰ってきてランドセルを開けると、たくさんの石がゴロゴロ入っていたこともありました。それを見て悲しくなったりして、何か妹の役に立ってあげたいと思っていました。小学校6年生ぐらいの頃でしょうか、「医者になって、妹の病気を診てあげたい」と思いました。そんな理由で医者になりましたので、「医師を目指した動機」と言われても、あまり立派な理由はありません。
 

■ 慢性期医療に携わって思うこと
 

 父を見ていましたので、病院というものに対して暗いイメージしかありませんでした。父の患者さんは結核が多かったので、「子どもはこんな所に来ちゃだめだ」と言われたことを思い出します。患者さんは結核菌をばんばん出している。医者というものが良い仕事なのかどうかよく分からなかったですね。喀血が止まらないと、肺の化膿した部分を取る膿胸の手術とか、膿になってしまった肺を切除する手術とか、いまでも難しい手術だと思うのですが、父は全身麻酔がない時代によくやっていたと感心します。

 そういう父の姿を見ていながらも、いざ自分が医師になると決まった時は、具体的な医師像は全くなかった。どんな人が良いお医者さんなのか、そのイメージが全くないまま医師になりました。父の時代、結核医療は最も華々しいフィールドでした。今で言うとがん医療ですね。しかし自分はもうちょっと違う分野で、例えば障害を持った方とか、そういう方々の医療をお手伝いできたらいいなという気持ちがありました。

 大学院を卒業後、外科の医局で少し雑用係をしていた頃、4年上の先輩が「一緒に開業しないか?」と誘ってくれました。私は先輩に「これからの開業医というのは軽自動車で患者さんの家をあちこち回るんだよ」と言いましたら、先輩は「そんなのやらないよ」と言って、帰っちゃったんですね。ところが数日後、先輩が突然やってきて「てるちゃん、あれおもしろそうだからやってみようよ」って言いました。それで、軽自動車を買ってぐるぐる回る在宅医療を始めたのが出発点です。生まれ育った茨城でスタートして現在に至っています。

 しかし当初は、大学のある静岡県でやろうと思っていました。ところが、地元の医師会から「病院の先生に在宅医療をやられたら、我々が食えなくなるので勘弁してくれ」と拒まれました。そこで私たちは場所を変えようと思い、いろいろな地域を見て決めようと考えて、北海道から九州まで20数カ所を見て回りました。その中で茨城という地域は、高齢化が進む大都市・東京に近いし、面白い場所だと思いました。在宅医療を始めて4年後、在宅医療のコアの部分がほぼできた頃に、東京の品川でも在宅医療を始めました。次は埼玉にも広げたいと思っています。

 在宅医療を始めた当初は、診療報酬も現在のような高い設定ではなく、経営的に非常に厳しい時代でした。しかし、新しい日本的な医療が在宅医療というフィールドでつくれるのではないかという期待感がありました。当時の医療、そして現在もそうですが、日本の医療は欧米の医療を輸入して、日本人に無理矢理に合わせているような感じがします。高度先進医療に限らず、終末期のケアでもそうです。

 緩和ケアを例にとっても、アメリカの有名大学の教授が来日して、緩和ケアの講演などをすると、日本の医師らはそれをありがたそうに拝聴します。こんなことを言うと怒られちゃうかもしれませんが、欧米の製品をいかに日本人に合わせるかという視点でとらえる傾向があります。日本の明治以来の歴史でしょうね。しかし、これからは、日本人が日本のお年寄りのために何ができるのか。日本人である医者が、日本人のお年寄りのためにどんな知恵を出せるのか、どういう医療が日本のお年寄りにふさわしいのか、ということを提案すべきである。そして日本人にふさわしい医療を提案できるモデルをつくれるフィールドが在宅医療にあると思います。在宅でたくさんの患者さんを診る中でいろんなことが見えてくる。在宅医療は、新しい日本人の価値をつくることができる。日本的な医療の価値をつくることができる。漠然としていますが、そんな思いがあります。

 世界の中で高齢化が真っ先に進む日本で、私たちが新しい高齢者医療のモデルをつくっていく。在宅での看取りなどを通じて、「こういう医療が日本的な医療なんだよ」というようなものをつくって、我々と同じように高齢化が進むアジア各国の人たちにフィードバックしていきたい。それは決して高度な先端医療ではなく、私たちの心の中にある思いを形にする医療です。実は一昨日、在宅の患者さんがお亡くなりになりました。末期がんのおじいさんで、病院から「もう1~2週間でしょう」と言われて自宅に帰ってきました。窓際にベッドを置いて、週末になると息子さんと一緒に酒盛りをしました。ベッドサイドにはたくさんの日本酒が並び、まるで居酒屋のようでした。そういう中で最期を迎えられました。

 私はこれが日本人の医療ではないかと思うんです。ベッドサイドを居酒屋にするという発想は西洋の医療にはないと思います。兄弟や親戚がみんな集まって、お父さんと息子たちが飲んで、奥さんや娘さんがお料理を作って居酒屋のような中で最後の時を過ごす。家族団らんの中での医療です。こういう医療の形を1つずつ集積していって、日本人の宝物にしたい。こういう国で暮らしてみたいと思われるような、日本の文化に基づいた日本の医療というものを在宅医療でつくっていきたいと思っています。家族は文化のコアですから、そのコアの中での医療をつくることができたら、在宅医療をやった価値があると思っています。
 

■ これからの慢性期医療はどうあるべきか
 

 医療というものは、やはり文化風土に根付いたものです。そして、その国の経済状況がある程度豊かでなければ医療というのは成立しないものです。この2つを結びつけたものの中に答えがあるのではないかと思っています。その国の文化風土を無視した医療というのは、その国には根付かない。今まで後まわしにしてきたマニュアル化できない部分、例えば心の部分などに関してどうしていくかが今後の課題だと思います。

 この点について、私もさんざん迷った挙げ句、実はいま東京芸術大学の講師をしています。我々医師とコラボレートする仲間として、美術の先生方や音楽の先生方がいいんじゃないかと思っています。今までの医療的の考え方の中ではマニュアル化できなかったものを、ある程度形にしていく。伝えられる形にしていく。それは、美術系的なものだったり、音楽的なものだったりします。これからの慢性期医療は、そういうものを通したフィールドを充実させていくとよい。

 昔から、医師の中には美術や文学などに造詣が深い先生方がたくさんいらっしゃいました。そういう先生方は、医療にはマニュアル化できるものとマニュアル化できないものがあるということを直感的に感じていたのだと思います。例えば、日慢協の機関誌やホーページの絵を猿原孝行先生が描いておられるように、とても素晴らしい絵を描く先生もいます。猿原先生は私たちに、「マニュアル化できないものがあるんだよ」ということを教えてくださっていると思います。そういう部分を私たちがこれからどうつくって広げていくのかが大きなテーマだと思います。

 芸大とのコラボレートによって「日本の国宝を作ろう」という気持ちはあるのですが、まだ全然具体化していなくて本当に申し訳ないのですが、いろいろなトライアルをしていく中で、医療人や患者さんの心が充実できるようなプロセスをつくっていきたいと思っています。例えば、1人の人間に日々起こるストーリーの集積を次世代につなげていくことも大切だと思います。私の大の仲良しでカエルが大好きな脳外科の先生は、カエルのことをお話しする時はとても生き生きとした表情になります。楽しいことや悲しいこと、つまり感動を自分の思い出の中に丁寧にしまい込んでいく習慣は、心を充実させるうえで一番大事ではないかと思います。

 在宅医療では、患者さんとお医者さんが一対一で対応します。すごく楽しかったこと、辛かったことをみんなで共有して泣き笑い。誰にでもある人生の泣き笑いを最期の瞬間までにどれだけみんなの思い出に詰め込めたか。振り返った時に「ああ、素晴らしかったな」と思える思い出をつくっていけるか。これは医学の分野だけに限らないと思います。修学旅行の思い出、子どもが生まれた時の思い出、初めて子どもが小学校に通った日の思い出。そういう思い出をずっと大切にして、それらを積み重ねた人生に満足する。お金があるかないかで成功、失敗を判断するのとは対極軸にあります。

 日本人がずっと大事にしてきた文化風土をもう一度見つめ直す。先祖代々から受け継いできた宝物をもう一度見つめ直して、その感動を自分の思い出に詰めていく中に医療がある。うちのおばあちゃんがもうすぐ亡くなる、お父さんお母さんが亡くなっていく、そして自分が最期を迎える、そういう時まで、果てしなく続いていく。1つのストーリーが完結せずに次に続いていく。これはもう、その家族にとっての財産だし、そこに関わる医者にとっての財産だという文化ができれば、素晴らしい日本の医療が展開できると思います。

 在宅医療における医療技術の向上も大切ですが、それは必ずしも本質的な要素ではないと考えています。以前、乳がんの手術をご自宅のベッドでやったことがありますが、そういうことをやるのが在宅医ではないと思います。在宅医のメインは、例えばベッドサイドが居酒屋になってしまうことを「いいよ」と言ってあげて、「いいな」と感じてあげることです。そちらのほうがより大事だと思います。それが在宅医の役割ではないかと思うんです。在宅で麻酔や切開するような技術的な側面を重視しすぎると、それは病院の外科医がしていることと同じで、「失敗か成功か」というストーリーを繰り返すことになってしまいます。

 あるいは、在宅で拘縮のある患者さんにボトックスを注射したら拘縮が取れたとします。そういうスキルだけを追い求めると、我々が今までやってきた西洋医学の応用みたいなことに重点がおかれます。患者さんからはありがたがられますが、それは1つの技術であって、本当に大事なことはもっと違うことだと思います。死んでいく患者さんと、その残された家族に対して、どういう判断をその都度その都度していくのかということのほうが大事だと思います。訪問看護師さんにはそこまでの責任を取れないじゃないですか。生き死にまでの責任は取れない。しかし医師は、「いいよ」とか、「ちょっと考えましょう」とか、いろいろな知恵を出しながら、できるだけ患者さんが望む方向を実現していく判断ができる。そこが在宅の医師として大事なことであると思っています。

 そのために、思い出づくりをたくさんしてあげたい。芸大の先生方を見ていて感じるのは、やはり日本人というのは技術が大好きでうまいということです。問題はそこから先で、見る人に「いいな」と思ってもらえるかどうかは、作り手が作品に対して心を吹き込んでいるかどうかであると思います。医療も全く同じです。日本人のお客様を診るわけですから、そこに医療者の心が吹き込まれているかどうか。人生、泣き笑いの時間を先生方にどうつくっていけたらいいのか、いま少し考えている次第です。芸大との交流を通じて、「美術と医療のリエゾン」ができれば、両分野がまた一歩進むような気がします。

 それからやはり、障害を持った方々に対して何か力になりたいと思っています。現在、障害を持ったお子さんたちが作業所で1カ月間働いて得られる収入は平均1万円ぐらいだと聞いたことがあります。先ほど、欧米の医療を輸入するよりも日本の医療を確立すべきというお話をいたしましたが、逆に、欧米などの文化で一番優れていると感じているのは、社会を支えるうえで、donation(寄付)の発想が根付いている点です。日本では、寄付によって社会を支えていくという考え方が希薄ではないでしょうか。例えば、メトロポリタン美術館はdonationで運営されていますよね。がんや難病に対する基金をはじめ、donationで運営されていることが多い。ですから、日本も「寄付社会」を一つの目標にすべきかと思います。ある程度、社会的な基盤を築いた人は、社会に還元することが大事だと考えています。寄付したことが評価される社会にしていきたい。そしてその結果の基金が障害者の医療も支えるようになればと思います。
 

■ 若手医師へのメッセージ
 

 慢性期医療について、京都の大原記念病院グループ代表の児玉博行先生がおっしゃった言葉が素晴らしいと思っています。お魚にたとえると、急性期医療はお頭で、胴体から尻尾までが慢性期医療だと言います。全くその通りだと思っています。お頭は非常に大事な部分で、ここでほとんどが決まってしまいますが、胴体から尻尾の部分というのは、たくさん身があって、ここは非常に多くのマンパワーを要します。もちろん急性期もマンパワーが必要であることは当然ですが、慢性期の場合は非常に幅広く、様々な分野にまたがっているので、多様な職種が強力なチームを組んで取り組む必要があります。慢性期医療にとってチームアプローチが非常に重要です。お医者さん1人では対応できないのが慢性期医療です。

 私がやっている在宅医療というのは、慢性期医療の中での1つの柱になると思いますが、現在、若手の先生に対しては非常に申し訳ないことをしていると思っています。在宅医療のコンテンツをまとめ切れていないからです。教育研修機関が十分に整備されていません。もちろん、マニュアルに書けない部分が在宅医療にとって重要ですが、これから在宅療養のニーズがますます増大することを考えますと、在宅医療に飛び込んできてくれる仲間を増やす必要があります。病院の勤務医が開業して在宅医療に取り組もうと考えたとき、どこに行ったら在宅医療が学べるのかが、よく分からない状況にあります。

 そのため、日慢協を通じて厚労省などと協議を重ねて、在宅医療の教育研修機関をきちんと確立していく必要があると思っています。そうすれば、若い先生たちが在宅医療をやろうと思ったときの障壁がなくなり、在宅医としての人生設計ができますよね。そういう教育システムをつくれたらよいと思っています。

 慢性期医療に関するスキルや情報は、かなり集積してきたと思います。今後は、そこで働く人たちの満足度、患者さんの幸せなど、心の部分をどう支え、とらえていくのか、地域との関係をどうつくっていくのかが重要でしょう。「地域」というのは、人々が暮らしているコミュニティそのものです。地域と医療機関との関係はだいぶできてきましたが、コミュニティと医療者1人ひとりとの関わりはどうでしょうか。心の部分というのは、まだ手付かずな部分になっていると思います。

 私が芸大の院生にお話ししているテーマは、一貫して「日本人」についてです。例えば、「日本人の死」について。現在、日本人は日本人として死ねなくなってきているのではないでしょうか。医療が発達して、最後はアメリカ人と同じような死に方になっています。病院のベッドでお医者さんが脈を取って最期を迎えるみたいな死に方です。ご家族も間に合わないことが多い。そこで最初の頃のテーマは「日本人の死を取り戻そう」という内容でした。今後は、先ほどお話しした思い出づくりみたいなことをやっていこうと思っています。
 

■ 日本慢性期医療協会への期待
 

 慢性期医療も研修医制度をつくらなくてはいけないと思います。急性期医療に関しては研修医制度がありますが、慢性期医療の研修医制度はありません。慢性期医療が発展するためには、若い先生たちがどんどん参加することが大事です。そのためには、まず慢性期医療を知ってもらう必要があります。大学卒業後、研修医としてスーパーローテーションするカリキュラムの中に慢性期医療を含める。そういう制度をつくるための活動を展開していく必要があると思いますし、その中心に日慢協がいてほしいと思います。

 また、先ほど申し上げた在宅医療の研修制度にもさらに力を入れてほしいと思います。すでに日慢協では「在宅医療認定医講座」をスタートさせていますが、それをもっと進めて、ある研修施設に1年ぐらい通えば在宅医療の基本的なスキルが身に付いて、在宅チームを自分の地域で展開できるような仕組みを整えられたらいいと思います。

 現在、在宅医を増やすための教育研修機関が不十分ですので、日慢協で全国に研修施設をつくり、日本中に在宅医の卵をどんどんつくってほしいと思っています。私の診療所にも、在宅医療の志を持った先生が来てくださっていますが、まだきちんとした養成プログラムがあるわけではなくて、OJTのような形で一緒に患者さん宅を回りながら学んでいただいている段階です。ですから、ぜひ日本慢性期医療協会がリーダーシップをとって、在宅医療の教育研修機関の確立を進めていくことを期待します。(聞き手・新井裕充)
 

【プロフィール】
 
[学 歴]
 昭和52年3月 茨城高等学校卒業
 昭和61年3月 浜松医科大学医学部卒業
 昭和63年4月 浜松医科大学大学院入学
 平成4年3月 浜松医科大学大学院卒業
 
[職 歴]
 昭和61年4月~
 昭和62年3月  浜松医科大学付属病院第2外科勤務

 昭和62年4月~
 平成5年3月  国立東静病院外科勤務

 平成5年4月~
 平成8年2月  駿河西病院勤務 副院長

 平成8年3月  いばらき診療所開設

 平成10年4月  医療法人社団いばらき会設立、同法人理事長
          現在に至る

 現在、財団法人安寿苑理事長 東京芸術大学非常勤講師を兼ねる
 



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