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【第21回】 慢性期医療リレーインタビュー 上條裕朗氏

Posted By 日本慢性期医療協会 On 2013年1月23日 @ 2:52 PM In インタビュー,役員メッセージ | No Comments

 「死について多くの人は、なだらかな山を下るようにだんだんと症状が悪化していき、フェードアウトするようにご臨終を迎えるようなイメージをお持ちではないでしょうか。崖から落ちるように、突然悪化して亡くなる死があまりイメージされていません」──。長野県松本市の上條記念病院院長で日本慢性期医療協会理事の上條裕朗先生は、若い医師らに「死について理解を深め、多様な死を経験してほしい」と望みます。そして、「慢性期医療の神髄は、社会的弱者のそばに寄り添うこと」と強調します。
 

■ 医師を目指した動機
 

 大学受験に失敗して浪人していたころ、将来の目標や方向性を失って悶々としていました。そんな時、母から「弱者の味方になる道に進みなさい」と言われました。いろいろ悩んでいた時期でした。母の言葉に、「あ、そうか」と気づき、思い至ったのが医師という職業です。母は、「弱者の味方になるには、お医者さんが一番いい」と言いました。自分の目標を失いかけて、ふさぎ込んでいた時期がしばらく続いていましたが、母の一言で一念発起しました。

 高校生までは外交官になりたくて、国立大の文系を目指していました。しかし、「医師になる」と決心してから、文系から理系に転向し、猛烈に理数科目を勉強しました。運が良かったのか実力なのかは分かりませんが、信州大学の医学部に一発で合格しました。いま思えば、浪人しないで最初から信州大学を目指せばよかった(笑)。

 母は心優しい人でした。中学生のころ、こんなことがありました。ある日、同級生が万引きをして警察に逮捕されたのですが、母はにぎりめしを作って、差し入れに行きました。他人の物を盗むのは良くないことですが、貧しいご家庭のお子さんでしたので、いろいろな事情があったのだと思います。母は地域で特別な活動をしているわけではなく、ごく普通の専業主婦ですが、目の前に困っている人がいると手を差し伸べる心を持っていました。日ごろから「弱い人の味方になれ」と私に言い聞かせていた母の思い、「社会的弱者を救う」という気持ちは、医師になった今もずっと持ち続けています。

 信州大学の医学部を昭和44年に卒業しました。大学には残りませんでした。なぜかと言いますと、当時はインターン制度の廃止を求める闘争の真っ最中で、研修が信州大の「青医連」(青年医師連合)の管轄下にあり、本人の希望が無視されたからです。私は青医連の考え方に賛成できなかった。そこで信州を離れ、東京に出てきました。東京女子医大に脳神経外科学教室が新設され、東京大学から喜多村孝一先生が教授として着任したため、私はその一期生として入局しました。
 

■ 慢性期医療に携わって思うこと
 

 人生って、2つのうちどちらかを選ばなきゃいけない時がありますよね。外交官への道を諦めて医師になったのもそうですし、救急医療をやめて慢性期医療に移ったこともそうです。私は昭和53年に大学医局を辞め、松本に帰ってきました。各地域で勤務医をしていた義理の兄弟らも同時期に戻ってきました。理由は、松本の救急医療を再生させるためです。義理の母が院長を務める上條医院に脳神経外科などを開設し、救急医療に力を入れました。

 当時、妻の父が地区医師会の役員をしていまして、「松本は救急医療がなっていないから、おまえたちで何とかしろ」と背中を押したのがきっかけです。私は「教授になれる道もあまりないし……」と考えていましたし(笑)、ちょうどそんなころに「帰ってこい」と言われたことが転機になりました。しかし、救急医療への取り組みはそう簡単には進みませんでした。既得権益を守る立場からの反対意見もあり、トラブルの連続でした。

 地域の医療を再生させるということは、本当に大変なことなんですね。行政的な規制はもちろんのこと、地区医師会との調整もある。病院を運営する兄弟たちの意見もいろいろある。近年、「連携」ということがよく言いますが、まずは地域の行政や医師会、病院や診療所らが同じ方向を目指して力を合わせることが大切だと思います。受け入れ先がなくて困っている患者さんがたくさんいましたし、応援してくれる医者もたくさんいましたので、「困っている人たちを助けてあげたい」という一心で、なんとか救急病院の立ち上げにこぎ着けました。

 ところが問題発生です。ベッドを増やす前は、救急患者さんが来ても「満床です」と言ってお断りしていましたが、107床にしてから、患者さんがどんどん入院するわけです。そうしましたら、医師である義理の弟や妹らが「こんな忙しいのはイヤだ」と言って逃げてしまいました(笑)。そこで、近隣の大学病院などから非常勤の医師を派遣していただき、どうにか運営をつなぎました。

 しかし、次第に松本市内に救急病院が増え、三次救急から一次救急まで充実してきまして、脳外科の専門病院までできました。そのため、「競争する必要はない」「救急はもうやめよう」ということになりました。私たちの役割は成就したと考えました。しかし悪かったのは、それを決心したのがボーナス支給の時期と重なったことです。医師は辞めるわ、看護師も逃げていくわ、しかしボーナスは払わなければいけないということで、深刻な経営危機に陥りました。

 こういう一大事に、銀行は金を貸してくれない。「慢性期病院に変えて、経営が良くなるか分からない」と言われました。その時の銀行の対応というのは、そりゃもう冷たいものです。また、こういう時につけ込む高利貸しみたいな奴がいるんですよね。いろいろなお話がありましたが、とりあえずきちんとした所から融資を受けることができて、慢性期病院として再スタートすることができました。

 急性期から慢性期に移ってまず感じたのは、「手を抜こうと思えばいくらでも抜ける」ということでした。経営を安定させるためには、老人をたくさん入れて、朝から晩まで点滴漬け、検査漬けにすれば儲かると思いました。さらに、ナースをたくさん配置すれば入院料も高くできる。しかし、私はそういう道には進みませんでした。患者さんやご家族は、医療についてよく分かりませんし、何も言えませんでしょう。当時はまだ、「お医者さま」の時代でしたから、患者さんは医師の言いなりになります。どのような医療を行うかを患者さんが十分に理解しないまま、もしかしたら良くない医療を「ありがとうございます」と言って受け入れる。これは私には許せないことでした。

 当時の「社会的入院」を生んだ背景として、医師の職業倫理や志なども関係しているとは思いますが、決してそれだけではないと思います。この業界には、いわゆる「医療経営コンサルタント」と言われる方々がいて、いろいろとアドバイスをしにやって来る。「先生、なぜこんなに損する医療をやっているのですか?」とか、「もっとお金になる医療があるじゃないですか」と言う。「この検査はなぜ1回しかやらないのですか? 他の病院では2回も3回もやっていますよ」とか、「なぜ異常がある箇所しか検査しないのですか? 他の病院では定期的にやっていますよ」とも言う。

 必要な検査であればね、それは何度もやるかもしれません。しかし、必要もないのに、何度も何度も同じような検査を繰り返すのはいかがなものかと思いましたので、私はそのコンサルタントに「患者さんの弱みにつけ込んで、お金を巻き上げるようなことは納得がいかない」と申し上げました。慢性期病院というのは、長期の患者さんを入院させればいいのではない。きちんと治療して在宅に戻さなければいけない。私たちはそう考えて、当院を「トータルサポーティング・システム」と名付けて取り組んできました。

 慢性期医療の神髄は、社会的弱者のそばに寄り添うことではないでしょうか。孤独死や低年金生活者、生活保護を受けられない低所得者がいる。家族との絆が破壊された高齢者や難病を抱えている人、医療処置が必要なのに入院を拒否される人もいる。行き場を失った患者さんに優しく手を差し伸べてあげることが、私たち慢性期医療に携わる人間の使命だと考えています。
 

■ これからの慢性期医療はどうあるべきか
 

 社会的弱者を救うことです。慢性期医療を必要としている人の中には、社会的弱者が多い。こうした人々が見捨てられないように、陽が当たるようにすべきです。医療処置が必要だから介護保険施設への入所を拒否されたり、低所得であるために急性期病院から早期退院を迫られたりする人がいます。こうした方々を引き受けるのが、慢性期医療を担う私たちだと思います。

 介護保険施設の収入が落ちるために、入所を拒否される人もいます。身体の状況が改善しても、在宅で医療を継続できるとは限りません。在宅医療にはお金が掛かりますから、経済的に困窮しているために施設への入所を希望する人たちが大勢います。私は慢性期医療に携わってしばらくして、行き場のない患者さんをどうしたらいいのかという問題に直面しました。治療を終えてもすぐには自宅に帰れません。

 平成7年、100床の介護老人保健施設「ローズガーデン」をつくりました。横に広い平屋建てのワンフロアーで、全体を見渡せるようにしました。慢性期医療というのは、「生活の場」を提供することです。「肺炎が治ったから、早く帰れ」というわけにはいかない。ご家庭の事情もあるでしょう。最近では独居老人や老老介護も増えています。そうした患者さんに対して、医療を継続しながら、従前と変わらない生活をしていただく場を提供することがわれわれの役割であると思います。

 自分で生活していくためには、自力でトイレに行けることや、食事の支度ができることが必要です。単に病気だけ治ればいいということではありません。自力で生活していかなくてはいけないのですから、その手助けをして在宅復帰につなげていく施設の役割が非常に重要です。施設にいる間に、生活に必要な機能を回復させてあげるように努めています。

 私たちは、慢性期病院と在宅とをつなぐ橋渡しの場として介護老人保健施設をつくったわけですが、困った問題に直面しました。認知症の患者さんです。壁に穴を開ける、ガラス窓は叩き割る、職員は殴られる。本当に悩みました。「おい、どうしたらいいんだ……」と頭を抱え、みんなで話し合い、認知症病棟をつくることにしました。そこで最初のうちは、縛ったり抑制剤を投与したりしたこともありました。

 しかし、最終的にたどり着いたのは、薬物からの脱却です。薬物を減らすことによって、認知症患者さんの半数ぐらいが改善しました。薬物の中には精神症状を引き起こしたり、状態を悪化させたりする作用を持つものもありますから、薬物を徹底的に排除して、自然治癒力に委ねる方法に切り換えました。

 最も効果があったのは「話しかけ」です。看護師さんらが患者さんのベッドサイドに行って声をかけて、お話を聴いてあげる。それだけでいいんです。すべての認知症患者さんがそれで治るわけではありませんが、とにかく話を聴いてあげることで、かなり多くの患者さんが改善に向かいました。当時は認知症の治療に関する情報があまりなく、「暴れる患者は薬漬けにして眠らせてしまえ」という病院もあったようですが、私は「それは絶対に違う」と思いました。

 問題行動を起こすのは、何らかの理由があるからです。独り暮らしのために話し相手がいないストレスがある患者さんは、お話をじっくり聴いてあげると改善することが多い。決して上から目線でなく、座って話を聴いてあげる。「夜中ずっと騒いでいる患者さんは寂しいんだ」とか、「職員を殴る患者さんは虐待されていた」とか、そういう背景が少しずつ分かり始めました。

 特に印象に残っているのは、外に連れ出したら良くなった患者さんです。それまでは、問題行動を起こして大変でした。何をしても効果がなかったのですが、ベテランの職員がパッと見て、「外に連れ出してあげて、庭を一周したらいいんじゃないの?」と言いました。その通り、散歩から帰ってきたら表情が一変して、ニコニコ笑顔でした。

 医療は幅広く、そして切れ目なくつながっています。話がちょっとそれるかもしれませんが、私は「リハビリテーション」という言葉が大嫌いです。「リハビリテーション」という名前が付いてしまうと、ナースや介護福祉士らがリハビリをやらなくなる。「それはOT、PTの仕事だろう」ということになります。いや、そうじゃないだろうと。患者さんの手を取って階段を上ったり、廊下を往復したりしてあげることもリハビリです。「どこからどこまでがこの職種」という区切りをつくるべきではありません。「これはADL向上に必要な援助です」などと言いますが、「ばか野郎」と言いたい。かっこいい名前を付けて、多職種をいたずらに分断してしまっている現状には、大いに疑問があります。

 最近は、医師が「あれをやれ、これをやれ」というオーダーを出さないとやりません。「医師の指示がないからできません」と言うのです。立派な「看護目標」を偉そうに掲げていても、目の前にある必要性に応えられない。決して看護師が悪いわけではなく、そういう制度になっている点も、そろそろ見直す時期に来ていると思います。各職種が医師に言われてやるのではなく、自ら判断して動けるようにすることが必要だと考えます。

 今後の診療報酬体系については、もっと現場の実態に即した内容に変えてほしいという思いがあります。まず「医療区分」の見直しが必要です。それから入院基本料です。看護師の数で値段が決まるのはおかしいでしょう。薬剤師やリハビリスタッフなど、多職種の配置も考慮した上で適切な価格設定を考えていくべきだと思います。

 診療報酬改定があるたびに、何が増えると思いますか? 加算です。「あんなもん、覚えられるか」というぐらいに複雑怪奇です。患者さんやご家族から、「1か月おいくら掛かるんですか?」と尋ねられて困るのは現場です。「10万から15万円ぐらいです」と答えると、「じゃ、10万円でひとつお願いできませんか」という話になります。診療報酬は公定価格ですからそうはいきませんが、一般の方々の感覚ではそういうことになります。

 ですから、もうちょっとすっきりとした診療報酬体系にしてほしい。先ほどのケースとは逆になりますが、医療制度に詳しい患者さんから、「安く抑えたいので、その加算はやらないでください」と言われることもあります。診療報酬というのは、医療側から押し売りをしているようなものです。「そんな加算は要らないから安くしろ」と言われ、「なんでそんな細かい点数を知っているのか」とびっくりすることもあります。そのほか、医療保険と介護保険で食事料が違う点もぜひ改善してほしいところです。
 

■ 若手医師へのメッセージ
 

 以前、こんなケースがありました。お見舞いに来た息子さんが、1時間ほど別の場所に行って戻ってくるまでの間に、お亡くなりになりました。その患者さんは息子さんと元気にお話しされていましたので、さぞかしショックだったかもしれません。しかし、トラブルにはなりませんでした。実は、息子さんに「老衰で突然亡くなることもありますよ」と、あらかじめ伝えておきました。

 医学部で病気のことは勉強するけれども、死についてはどうでしょうか。いろいろな死があります。教科書に書いていない死がたくさんあります。自分が勤務している時間帯に患者さんが亡くなることを嫌う医師がいますが、いつ亡くなってもおかしくない高齢患者さんが、ある日突然亡くなることはよくあることです。

 死とは何か。死について多くの人は、なだらかな山を下るようにだんだんと症状が悪化していき、フェードアウトするようにご臨終を迎えるようなイメージをお持ちではないでしょうか。これに対し、崖から落ちるように、ある1時点でストーンと落ちるように突然悪化して亡くなる死が、あまりイメージされていません。ですから、ある日急に亡くなると、「これはおかしい」と家族が騒ぎ出す。「あんなに元気だったのに、こんなに早く死ぬはずがない!」と、7年も会っていない娘が突然現れて言う。

 若い先生方にはぜひ、死というものについて理解を深め、多様な死を経験してほしいと思います。もう少し踏み込んで言いますと、「患者さんがあの病院で死んだのは、そこの医者のレベルが低いからだ」などと誤解しないように、死というものについて理解してほしい。そして、医療は幅広く、つながっているものだという考えを持ってほしい。医師の中には、仲間を平気で批判する者もいます。医師は社会的に尊敬される存在なのですから、良識を兼ね備えた人であってほしいと願います。
 

■ 日本慢性期医療協会への期待
 

 急性期病院では、右肩がまひになったら、そのまひを治すことに注力しますが、慢性期病院の患者さんには生活が待っています。自分の家に帰って、今までの生活を取り戻さなければいけません。右肩のまひが良くなっても、不自由な状態が続いているでしょう。ですから、生活を取り戻すために必要な支援をしてあげるのが慢性期医療の役割であると思っています。慢性期医療がカバーする範囲は今後さらに広がり、医師の裁量で判断しなければならないことも増えるでしょう。

 しかし、医療は我流になってはいけません。他の医療機関での取り組みを知ることが必要です。そして、多くの先生方の英知を結集する必要があります。日本慢性期医療協会では、慢性期医療認定病院の制度を整え、多様な研修会や認定医制度などに熱心に取り組んでいます。当協会の役員を務めている先生方は、どちらかと言うと「勝ち組」でしょうから(笑)、協会に来るたびに、いろいろな知恵を持ち帰ることができます。

 最近、ケアマネジャーの質向上への取り組みもスタートしました。武久洋三会長をはじめ、各先生方の熱意はものすごいものがあります。医療の質向上を目指す活動を今後もどんどんやるべきだと思っています。各病院は、研修会や学会に職員をどんどん参加させてほしい。私は協会主催の研修会などに、当院の職員を積極的に参加させるようにしています。「学ぶ」という点で、日本慢性期医療協会は非常に優れた場を提供していると思います。日本慢性期医療学会は、多職種が発表できる数少ない場ですし、職員のレベルアップにつながります。

 私は6年前、胃がんのため胃を切除しました。それまでは、短大の講師を務めたり、多くの学会活動に参加したりしていたのですが、手術後は学会活動も休止しています。酒もたばこもやめました。カラオケもやらなくなりました。しかし、日本慢性期医療協会の学会にはずっと参加しています。当協会は情報の発信基地であり、医療政策のエッセンスが詰まった場であると思います。

 武久会長や役員の先生方は、厚生労働省の審議会で委員を務めています。行政の動きをいち早くキャッチした上で、「今後の慢性期医療はこうあるべきだ」と政策提言するのですから、とても説得力があるし、非常にレベルが高いと思っています。「良質な慢性期医療がなければ、日本の医療は成り立たない」という理念を実現するため、今後のさらなる活動に期待しています。(聞き手・新井裕充)
 

【プロフィール】
 上條 裕朗(かみじょう・やすお)
  医療法人心泉会 上條記念病院院長・介護老人保健施設ロ-ズガ-デン副施設長
  社会福祉法人心泉会理事長
  日本慢性期医療協会理事
 

 昭和44年(1969)3月  信州大学医学部卒業
 昭和44年(1969)6月  東京女子医科大学 脳神経外科学教室入局
 昭和48年(1973)4月
    ~昭和49年3月  飯山赤十字病院 脳神経外科医長
 昭和49年(1974)4月  東京女子医科大学 脳神経外科に帰局
 昭和53年(1978)10月  大学を辞し松本に帰り、松本駅前 上條医院に脳神経外科を併設し、救急医療を中心に地域医療に貢献
 昭和57年(1982) 松本市芳川村井町に医療法人心泉会 上條記念病院(107床)を開設
 平成7年(1995) 松本市中山に独立型老人保健施設「ロ-ズガ-デン」(100床)を開設
 平成11年(1999) グループホーム「ローズガーデン」(9床)を併設
 平成12年(2000) 社会福祉法人心泉会を設立し、ケアハウス「ロ-ズガ-デン」(30床)開設
 平成12年10月 上條記念病院を151床に増床し、療養型病床90床を設けた
 平成14年(2002)5月  松本市中山に社会福祉法人心泉会短期入所生活介護(単独型ショートステイ)「ローズガーデン」(40床)を併設
 平成24年12月 長野県認知症相談医ステップアップ研修修了
 



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