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【第20回】 慢性期医療リレーインタビュー 木戸保秀氏

Posted By 日本慢性期医療協会 On 2013年1月7日 @ 5:03 PM In インタビュー,役員メッセージ | No Comments

 若手の医師らに、「10年後、20年後の職場がどうなっているかを想像してほしい。責任者になった時に部下がどれぐらいいるか」と問いかけるのは、松山リハビリテーション病院院長の木戸保秀先生。1人の医師ができることには限界があるので、チームの力がますます重要になると指摘します。「少ないスタッフの中で、それぞれの能力をきちんと見極めて、最大限の力を発揮してもらうためにどうしたらいいか。スタッフ1人ひとりの能力を見極める目が今以上に求められる」と話します。
 

■ 医師を目指した動機
 

 祖父も父も医者です。明治生まれの祖父は、どんな交通手段で往診していたと思いますか? なんと、馬ですよ。往診先に馬だけが着いて祖父が途中の溝に落ちていたとか、そんな話を聞いて育ちました。戦後で、バイクも車もある時代でしたが、ぬかるみや畑のあぜ道を通るには馬が一番だったのでしょうね。馬に乗って往診先に向かう祖父の姿を撮した写真が当院に飾ってあります。

 このインタビューに登場されている先生方の多くがそうであるように、私も医師の家系で育ったのですが、他の先生方と違う点があります。私は、祖父と父という2人の大先輩の背中を見て育った。すなわち、急性期医療と慢性期医療の両面を見て幼少期を過ごし、結果的に私自身は慢性期医療の道に進んだ。これが大きな違いです。では、なぜ私が慢性期医療の道に進んだのか。その辺りのことも含めて、医師を目指した動機について、お話しいたします。
 
 当院の歴史は古く、祖父が当院の地で開業したのは大正7年。物資の乏しい時代です。経済的に苦しい患者さんの診療だけではなく、地区医師会での活動などを通じて、地域医療に取り組んだそうです。祖父の診療所には産科もありましたので、私は祖父の手によって、この病院で産声を上げました。幼少期は、父の急性期病院と祖父の療養病院を行ったり来たりして育ちました。

 父は、阪大出身でバリバリの外科医です。父は昭和40年ごろ、祖父の病院の近くに急性期病院をつくりました。私はまだ幼かったので、救急車のサイレンが鳴るたびに父の病院に見に行ったり、不謹慎ですが病院の中で鬼ごっこをして遊んだりしていました。一方、祖父の病院は結核医療を中心とする病院でした。いつも慌ただしい救急病院とは違って、ゆったりとした雰囲気の療養病院でした。敷地が広いので、かくれんぼをする時は祖父の病院です。結核患者さんがたくさんいましたので、「伝染するから近寄るな!」と注意されましたが、そんなことは構わず患者さんや看護師さんたちと遊んでいました。

 その後、結核の患者さんが減り始めたこともあり、祖父の病院はリハビリテーション病院に転換しました。私が小学生のころです。そうしますと、今度はもっと面白いですよね。訓練室に行けば平行棒はあるし、マットもある(笑)。私にとって最高の体育館となりました。そのリハビリ病院が、現在の松山リハビリテーション病院です。

 話を戻します。なぜ医者になったのか。「そういう環境で育ったから」というのが大きな理由です。昼夜を問わず救急患者さんに対応する急性期病院があり、その一方で、結核医療に取り組む祖父の病院があった。そして、結核病院からリハビリ病院に移る際の苦労をはじめ、父たちの生きざまを見て育った。
 
 さらに言えば、祖父の影響が大きいかもしれません。祖父は明治生まれの厳格な方で、祖父と会話した記憶はほとんどないのですが、10歳ごろの出来事で鮮明に覚えている事があります。ある日、祖父の傍に呼ばれてベル型の聴診器をいきなり見せられ、その使い方をあれこれと教えてくれました。日ごろ無口で、非常に威厳のある祖父です。周囲から恐れられるような貫禄ある祖父が、小学生の私に直伝してくれたのです。子どもながらに「期待されているのかな?」と思うじゃないですか。

 もちろん、他の職業を考えたこともありましたが、「医者にならにゃいかん」という気持ちのほうが強く、医者の魅力を超えるような職業は浮かびませんでした。医学部を目指して浪人中、祖父が亡くなりました。その1週間前、私はとても不思議な夢を見ました。私が祖父の書斎の入り口に行き、そこに飾ってある祖父の両親の自画像が、何か話しかけてくる。書斎に入ると祖父が寝ていて、祖父の頭の上に大きな黄金色に輝いている観音様が立っている。とても不思議な夢でした。祖父から大きな期待をかけられている、そんな気持ちになったことを覚えています。
 

■ 慢性期医療に携わって思うこと
 

 医学部に入り、最初は外科になろうか、神経内科をやるか、などといろいろ考えました。そんなとき、在学中に「リハビリテーション講座」ができました。なじみがありますので、自然とリハビリ分野に目が向きます。そんなこともあり、リハビリの医局に入局しました。 父の急性期病院と祖父のリハビリ病院がある中で、私が後者の道を選んだのは、お年寄りとのふれあいや交流が嫌いではなかったからです。自分の性格に合っていた。

そして何よりも、地元・松山への愛着があります。小学生のころ、「郷土クラブ」に所属して、松山の歴史をいろいろ調べ、まとめたことがあります。戦国時代の歴史上の場所に当院があることや、私の両親や祖父らの系譜などを知り、巡り合わせのようなものを感じていました。幼少期は、近くの小川で魚を捕ったり、畑で野菜を盗んだりして(笑)、私もこの地の方々と深く関わってきました。地域というものを強く意識してきましたし、現在もそうです。

 でも、私は「慢性期医療に携わっている」という感覚はありません。例えば、急性期の治療が終わっても脳卒中で片まひになって歩けないので家に帰れない人がいる。リハビリをして、装具を付けて杖で歩けるようになれば家に帰れる患者さんなのかどうか。身体の不自由な人が、どうしたらもっと動きやすくなるのか、家族が楽になるのか。そういうことに強い関心を持ち、取り組んでいるという感覚です。

 「慢性期医療」をあえて定義すれば、急性期医療を終えた後も依然として困っている人たちに手を差し伸べる医療です。救急車で運ばれて来て、ドタバタした医療がある。その後、家に帰れるか、帰れないのかという分かれ目が来る。たとえ家に帰れたとしても、不自由な状態が続いている人がいる。急性期の段階を過ぎても不自由な状態が続いている人たちに対し、どうにかしてあげようという医療です。地域医療がベースにあって、その中のリハビリという分野が、自分の身に付けたスキル。常に念頭に置いているのは「地域」です。

 そこでは、チーム力が重要になります。急性期医療は医師の技量が大きく左右しますが、その後の医療はチーム力が決め手になります。もちろん、救急医療もチーム医療ですが、慢性期医療におけるチームは病院内にとどまらない点が違います。病院と病院、病院と施設、病院と在宅、そうした地域内でのつながりは、所属を異にする人たちのチームで構成されます。院内スタッフ間での情報共有だけではなく、他施設の職員やケアマネジャーらを巻き込んで、いかに患者さんをサポートしていくかという視点が必要です。

 後方病院は、常に前方病院の動きや取組み、方針などを理解していないと、ベッドコントロールなどの予測がつかず、受け入れがスムーズにいきません。病院を越えたチームで情報を共有しているからこそ、患者さんにとって最適の医療が提供できると思います。決して個人同士の連携ではなく、「地域」という広がりをもった中でのチーム、共同体があってはじめて可能になる。

 ですから、慢性期医療に携わって思うことは、単一の病院や施設の枠内にとどまらない「地域」という広がりの中で、チームというものをいかに運用して患者さんを支えていくかが重要であるということです。急性期から在宅に至るまでの医療・介護・福祉をどのように支えていくか、そのために各施設や職員らがどのように役割を分担していくか、それぞれの専門性をいかに生かすか、ということに尽きると思います。
 

■ これからの慢性期医療はどうあるべきか
 
 
 もう20年以上も前になりますが、卒後3年目に勤めた病院で、療養病棟をリハビリ病棟に転換することになり、いきなり私が責任者になりました。医者になってまだ3年目なのに、いきなりリハビリ病棟の部長です。看護師や訓練士らとどう関わっていくか、どのぐらいの入院期間でどのように改善させるかなど、病棟の立ち上げに関連して多くのことを学びました。

 急性期病院との連携などを通じて思うことは、私がこれまで話したような内容を理解してくれる医師の多くは、慢性期病院にいるということです。今、目の前にいる患者さんの前後に意識が向くかどうか。患者さんは何を望んでいるのか、他職種はその患者さんに対してどのように考えているか。そうした周辺にまで気を配るということは、もしかしたらとてつもなく難しいことかもしれません。

 介護保険を使う場合には、ケアマネジャーとの関係が重要になります。野球にたとえて言いますと、送る側の病院はピッチャーで、受け手のケアマネはキャッチャーです。どのようなボールを投げればきちんとキャッチしてもらえるのか、ケアマネがきちんと予測できるように、あらかじめ情報提供しておく必要がありますし、ケアマネの特徴を把握しておく必要もあります。ケアマネだけでなく、看護師や訓練士らに対しても同様です。彼らが受け皿となって臨機応変に動けるようにしてあげるのが、われわれ慢性期医療に携わる者の役割であると思います。

 私の専門であるリハビリについて言えば、リハビリに関わる人たちや、それを取り巻く人たちが、患者さんの予後に対し適切な予測を立てて臨機応変に動けるような教育を施すことと環境を整えること。これこそが、リハビリ病院の院長や理事長に課せられた使命であると考えます。

 昔のように、看護師さんや保健師さんらとコミュニケーションをとれば何とかやっていけた時代とは違います。医療保険の制度に加えて介護保険制度ができて、介護にも予防ができて、どんどん細分化されている。介護といえば以前は老人ホームぐらいしかなかったのに、介護老人保健施設などができて、最近はサービス付き高齢者向け住宅も増えている。いろいろなものができて、制度も複雑になっている状況下にあって、それらを医師1人が理解できるはずがない。

 ですから、高齢化に対応できる医者を1人でも多く育てていくことも大事ですが、「脇を固めていく」という意味で、ケアマネや看護師、介護福祉士らの資質向上のための研修をどんどん実施していくべきだと思います。医師に対して分かりやすく情報提供できる看護師やケアマネ、ソーシャルワーカーらの力がこれからはどうしても必要であり、そういう医療者を育成していく必要があります。これからの慢性期医療にとって重要なのは、患者さんを支えるチーム力を高めていくことです。
 

■ 若手医師へのメッセージ
 

 例えば、ここに1人の脳外科医がいるとします。症例数もこなしてきた。どの病院でもやっていけるだけの技術も身に付けた。40歳を過ぎて50歳が近づき、長時間の手術は体力的に難しくなってきた。そこで、これまでの経験を生かして地域医療に取り込もうとする。そのとき、果たしてどうでしょうか? 前方と後方とのつながりを予知したり、患者さんやご家族の思いを察知したり、そういう発想を持てるかどうか。

 近年の医療は専門性が重視されていますが、専門性を追求するあまり、視野が狭くなりがちです。もちろん、専門性を追い求めていかなければ成り立たない部分もあるでしょう。一方、高齢化に対応する専門医として「総合診療医」の役割が期待されていますが、やはり病気に焦点が当たっているのではないでしょうか。医療に対する知識や経験を深めることも大切ですが、患者さんの周辺に目を配る姿勢も身に付けてほしいと思います。

 患者さんの生活環境がどのようなものか、どういう価値観や人生観を持っていて、周囲の家族はどのようなことを思って介護しているのかを考える。実は、非常に難しいことだと思います。制度が複雑化している中で、あらゆることを医師1人が把握することは困難です。そこでチームの力が重要であり、チームリーダーとなるべきはやはり医者なのです。先ほどの脳外科医が在宅医療などに取り組もうとしたとき、専門の道をひたすら突き進んできた50歳の医師を、周囲のスタッフが支える。医師の判断に間違いがあれば、彼らが軌道修正してあげる。そういうチームをつくれるような医師を目指してほしい。
 
 若い新入職員に言っていることがあります。10年後、20年後の職場がどうなっているかを想像してほしいと。40歳、50歳の責任者になった時に、若手の部下がどれぐらいいるか。医師になる人がどれぐらいいるか。看護師になる人はどうか。これは医療界だけの話ではないと思いますが、仕事を頼める部下は非常に少ないだろうということです。

 そうしたとき、少ないスタッフの中で、それぞれの能力をきちんと見極めて、最大限の力を発揮してもらうためにどうしたらいいか。スタッフ1人ひとりの能力を見極める目が、今以上に求められるでしょう。特に、医者としてチームの責任を担う立場になったとき、人を見極める目をもっともっと持たないとやっていけません。もしかしたら、手伝ってくれる看護師さんが1人もいないかもしれません。その時、誰に頼むことができるのか。そうならないように、今の若い人たちに期待することは、世代をこえたコミュニケーション力を養ってほしいということです。医師に限ったことではありません。協力してもらわないと、自分の仕事が成り立たなくなる時代になります。ずば抜けた才能や技術があって、勝手に部下が集まってくるような人は別かもしれませんが、たいていの人は、コミュニケーション力をいかに高めていくかが問われるだろうと思います。
 

■ 日本慢性期医療協会への期待
 

 近年、「地域包括ケア」の構築が叫ばれています。しかし、医師はもちろん、看護師もすべてを把握できるわけではないし、医療が分かるケアマネも不足している。そうした中で、地域包括ケアの調整役として機能し、責任を担うような母体が必要となります。地域の連携をまとめていく存在です。では、果たして誰が担うのでしょうか?

ここで1つ、やっかいな問題が出てきます。以前、指摘された「病院完結型」と似たような形に戻る懸念があるのです。病院でなくとも、1つの医療法人、1つのグループで完結させる形です。これは競争の原理との関係で果たしてどうか。地域で連携しなくてはいけないが、そこに独占が生まれる。地域包括ケアが行き詰まらないよう、地域のネットワークをいかに構築するかが今後の課題と言えます。

 そこで、日本慢性期医療協会の役割が重要となります。全国横断的な活動を通じて、各地域の病院や開業医らを巻き込んでいく。各地域における競争原理を残しながら、設置主体を異にする連携をつくっていく。高齢者が地域の中でよりよく生活していけるよう、地域包括ケアのベースをつくるのが日本慢性期医療協会であり、慢性期医療に携わるわれわれの役割であると思います。

 私は協会の活動に関わってから、もう10年以上になります。現在の協会の取組みや方針は、私の考え方に即していますし、むしろそれ以上のことをやっていますから、こうして参加しています。武久洋三会長のお考えをはじめ、各種の活動に共感しているからこそ、協力を惜しまずやっています。

 今後の課題は、活動の継続性だと思います。協会の活動が今以上に充実するために、次世代を担う若手の育成も必要でしょう。すでに取り組まれていますが、そうしたことをもっと進め、地域の医療、介護、福祉の橋渡しになる協会になることを期待しています。

 高齢者の医療、介護の核となるように、腰を据えてやっていく必要がありますので、私もそのための協力は惜しまないつもりでいます。決してぶれることなく、現在の研修や委員会などをこのまま継続して、さらに多くの人たちが集うような協会を目指してほしいと思います。(聞き手・新井裕充)
 
【プロフィール】

 [学 歴]
 昭和63年3月  東海大学医学部卒業

 [職 歴]
 平成元年6月  東海大学医学部付属病院研修
 平成3年4月  鶴巻温泉病院勤務
 平成4年4月  東海大学大磯病院 リハビリテーション科勤務
 平成7年4月  東海大学医学部助手
 平成7年4月  茅ヶ崎新北陵病院 リハビリテーション科勤務
 平成9年4月  医療法人財団 慈強会 松山リハビリテーション病院勤務
 平成18年4月  医療法人財団 慈強会 理事長
 平成20年5月  医療法人財団 慈強会 松山リハビリテーション病院 院長
 平成24年2月  医療法人財団 仁清会 理事長

 [資格・その他]
 日本リハビリテ-ション医学会専門医
 日本慢性期医療協会 常任理事
 日本リハビリテーション医学会 代議員
 日本リハビリテーション医学会 中国・四国地方会 理事
 愛媛県高次脳機能障害支援連絡協議会 会長職務代理者
 高次脳機能障害 相談支援コーディネーター
 愛媛県老人保健施設協議会 副会長・理事
 



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