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【第17回】 慢性期医療リレーインタビュー 熊谷頼佳氏

Posted By 日本慢性期医療協会 On 2012年12月12日 @ 3:32 PM In インタビュー | No Comments

 「慢性期医療の最大の目的は苦痛の除去とADLの回復」と話すのは、東京の医療法人京浜会・京浜病院理事長の熊谷頼佳先生。脳外科医として長年にわたり認知症の治療やケアに取り組み、「認知症予防と上手な介護のポイント」などの著書もあります。熊谷先生は、「本人だけではなく介護者の苦痛も除去し、ADLを回復させることが私の最大の主眼。それができるようになったことは、私が慢性期医療に携わってきた最大の成果です」と話します。
 

■ 医師を目指した動機
 

 祖父も父も医者で、私は3代目です。祖父は熊谷千代丸と言いまして、東京帝国大学を卒業して小児科医です。父の頼明は、慶應義塾大学の医学部に入りましたが中途退学しまして、東京大学の工学部を卒業しました。その後、祖父が急逝したため、再び医学部に入り直しました。慈恵医大を出て、外科・整形外科医になりました。私が3代目になります。私は昭和52年に慶應の医学部を卒業しまして、東大の脳神経外科に入局しました。私の娘は一昨年、慶應の医学部を卒業しまして、現在は前期研修医です。不思議な縁で、祖父・父・私・娘4人とも慶應と東大です。なぜか、特定の大学に集中している不思議な家族です。

 私は昭和27年に生まれました。子どものころ、自宅が木造の病院と隣接していました。母が病院の経理部で事務職員として働いていましたので、小学校から帰るとまず病院に行き、母に会ってから自宅に帰るという日々でした。自宅と病院が渾然一体としていました。自宅の敷地内に叔父の家族と祖父母らが一緒に住んでいましたので、まさに一族が病院一色でした。しかも、父は昼も夜も自宅で食事してから病院に戻る。自宅にいても病院から呼び出しがあれば行く。夜中にも呼び出される。病院の中に暮らしているのか自宅が病院なのか、という幼少時代でした。

 当時の思い出として、父の病院に勤務していた内科医の先生が往診に行く時に、私もその自転車の後部座席に乗って患者さんの所に行ったことを覚えています。先生が往診している間、患者さんのご家族が私の相手をしてくれて、お菓子やお駄賃を頂いたりした。子どもながらに、それが1つの喜びでした。夜中はさすがに同行しませんでしたが、夕方の往診には必ず付いていきました。

 今思えば、あれほど往診して費用対効果はどうだったのだろうかと、コストに見合う報酬はあったのだろうかと心配になります。そのぐらい、父も、そのほかのお医者さんたちもかなり忙しそうに働いていました。日曜日も祝日もなく、とにかく休みなく働いていました。それはきっと、やる気に見合うだけのものがあったのだと思います。親族経営でしたので、非常に仲が良くて明るい雰囲気でした。そういう中で、「自分も医者になるんだろうな」と、なんとなく思っていました。病院はボロボロの木造で、自宅も小さかったし、非常に貧しかったのですが、心はとても豊かな時代だったと思います。

 ところが昭和40年代になって、私たちを取り巻く環境が変化しました。高度経済成長時代に入り、あちらこちらにビルが建ち始めました。そのころ、病院の新築などが相次ぎ、当院も新しい病院にしようという動きになりました。このころから、私の一族は小金持ちになってきたのか、欲深くなってきたような気がします。お互いの間に微妙なすきま風が吹くようになりました。具体的には、父と叔父の主導権争いが始まり、「どちらの指示にどちらが従うのか」というようなことで毎日のようにけんかをしていました。同じ屋根の下に住んでいましたので、父と叔父が自宅でけんかを繰り返す。

 そうした状況の中で、木造3階建ての病院を壊し、鉄骨8階建ての病院にする建て替え工事が始まりました。それをきっかけに、父と叔父は完全に仲違いして、父は旧医療法人から抜けて個人病院を建てました。それが現在の京浜病院であり、鉄骨8階の病院は新京浜病院となっています。この2つの病院は当時から現在までそのまま続いていますが、叔父の病院は建て替え後3年ぐらいで倒産してしまい、人手に渡ってしまったことがあります。その後、日本船舶振興財団が「笹川記念病院」、「ピース病院」という名前で経営していました。ところが、それを閉鎖することになりましたので、父が昭和59年に買い戻したという経緯があります。

 話を戻しますと、父と叔父が仲違いしているころ、私は慶應の医学部に進学しました。慶應高校からの推薦入学です。当時を振り返りますと、本当に医者になりたかったのかと言われれば決してそうではなく、実は慶應の医学部という最難関の大学に入りたかったというのが正直な動機です。最も成績優秀な者が入る学部だったから行きたかったというのが本音です。

 高校生のころは、東大の法学部に入学して大蔵省に入りたかった。やりたかったのは、大蔵官僚あるいは日銀、せめて都市銀に入って、金融関係の仕事をしたかった。さらにそこから政治家に転身したいという夢もありました。当時、自民党の有力な政治家がほとんど大蔵官僚の出身で、そこから総理大臣になっているのを見て、自分もそういう道を進みたいと思っていました。

 では、なぜ医者になったのか。私は医者の家庭に育ち、なんとなく医者になるものだと思い、入った中学が慶應でしたので、そのまま医学部に進んで医者になったのですが、実は中学受験に失敗して慶應に入ったことが大きく関係しています。慶應という学校が自分にとても合っていて、非常に幸せな楽しい時代を過ごすことができました。慶應で過ごした12年間が非常に良かった。今思えば、それが非常に幸いした。

 私の小学校時代の能力は恐らく2流、3流だったと思いますが、慶應の医学部に楽々進めるぐらいの学力まで伸ばしてくれた。慶應に進んだから医学部を目指したし、医者になったのだと思います。ですから、慶應という学校に非常に感謝しています。もし中学受験に成功していたら、もっと低いレベルにとどまっていたような気がします。何が幸いするか分かりません。私が医者を目指した動機というのは、実はそんなところです。
 

■ 慢性期医療に携わって思うこと
 

 時代は急性期から慢性期です。慢性期医療のニーズが高まっている。なぜそう思うに至ったか、私の医師としての経験を振り返りながらお話しいたします。

 私は1977年に医学部を卒業してから35年になります。これまでの医師としての人生を振り返りますと、大きく分けて3つの段階があります。最初の10年間は、東大の脳神経外科をはじめ国立病院や都立病院に勤務していましたので、主に急性期、救命救急の医療です。脳血管障害の治療が専門です。ライフワークとしていた研究は、メディカルエレクトロニクスです。父が工学部から医学部に入ったこともあり、私は東大工学部の方々と非常に親しかったので医療工学に取り組んでいました。父が医療工学研究所という会社を設立したこともあり、すんなりとこの研究テーマを選択しました。

 次の10年間は、父の病院を手伝った時代です。そのころ、すでに人手に渡ってしまった叔父の病院が閉鎖することになり、父がその病院を買い戻すことになりました。私はこの時、広島に出張中でした。父から電話があり、「(叔父が建てた)病院を買おうと思うが、どう思うか?」と尋ねられました。勤務医の立場の私にそんなことは分かりませんので、「まあ、いいんじゃないの」と生半可な答えをしましたら、実はその一言で決まったらしいのです。しかし、その時の私には事の重大さと、それから始まる苦労を知る由もありませんでした。

 突然、私は父の病院を手伝うことになり、そのまま東大の医局には帰ることができませんでした。そして今日に至ります。当時は、「2、3週間ぐらい手伝えばいいや」という軽い気持ちで戻ってきましたが、まさかそのまま現在まで続くとは思いもしませんでした。しかし、よくよく考えてみますと、あの時を逃したらもう戻ってくることはなかったと思います。私は幸いにも東大の医局で活躍させてもらっていましたし、ものすごい勢いで論文を書いていました。恐らく研究が向いていたのだと思います。ですから、父が病院を買い戻すということがなかったら戻っていなかったと思います。

 天の声か、思いもよらず父の病院に戻ることになって手伝い始めましたが、これが今までとは全く別世界でした。大学病院のような巨大な病院と、100床規模の中小病院は全く違う。とにかく規模が違う。大学病院では、すべての診療科の先生がいますし、スタッフは多い。医療機器も揃っている。ところが、戻った病院では医者は少ない、看護師も足りない、機械もない。町の病院の貧弱さというものを改めて思い知らされました。とにかく思い通りに行かないわけです。それでも最初のうちは、大学病院と同じような急性期医療、脳外科医をやろうとして、2~3年は頑張りました。しかし、すぐに悟りました。「こんなことを何十年も続けられない」と。「身体を壊す。もたない。これはやめよう」、そう思いました。

 そこで考えたのは、急性期病院の後方支援でした。当時、脳の手術をした患者さんの転院先を探すのは非常に大変でした。急性期病院は、すぐに転院させてベッドを空けたいのですが、転院先が見つからない。脳の手術をした患者さんの術後管理ができない病院が多く、「おっかなくて受け入れられない」という病院ばかりでした。しかし、私はそれまで急性期病院で手術していた脳外科医ですから、そういう患者さんを受け入れるのは何の問題もない。病院を買い戻したばかりでベッドは空いているし、自院での手術はほとんどない。そこで、「うちで診てあげるよ」と言いましたら、東大の関連病院から一挙に患者さんが送られてきて、ベッドがすぐに埋まってしまいました。

 それでしばらくはよかったのですが、このころから国は医療費抑制策を進めます。つまり、長期入院の是正で、長期間入院すると点数がどんどん下がるような仕組みに変わりました。もともと行き場がない患者さんを引き受けたのですから、京浜病院から次に転院させる病院はないのです。東大その他の関連病院は「京浜病院に送ればいい」ということですが、京浜病院の次の受け手がない。それで困った。どうしようかと。「もう一度救急病院として勝負するか」、「いや、無理だからやめたんじゃないか」といろいろ悩んだ。

 そうした中で出てきた制度が療養型病床の定額制で、これに飛びつきました。医療療養型の病床は東京都で2番目だったと記憶しています。もともと、定額制で入院させても採算が合うような患者さんばかりでしたので、コストを掛けずにそのままやれば点数がマルメで入る。180床のベッドの大半は脳卒中の術後患者さんでしたので、効率的に運営することができました。同じような状態の患者さんばかりですので、スタッフもやりやすい。それで、「これはうまくいく。当院で長く続けていける」と思いました。

 ところが、状況がまた変わります。方針を切り替えた当初は脳卒中の術後患者さんが多かったのですが、次第に神経難病や認知症の患者さんがパラパラと入り始めました。現在は認知症の患者さんが8~9割を占めているのですが、始まりはそのころです。認知症の患者さんがやたらと問題を起こす。夜は寝ないで騒ぐ、大声を出す、徘徊する。脳卒中の患者さんは寝たきり状態ですので静かで動かないのですが、認知症の患者さんは違う。医療レベルでは安全で、死の危険性がないのに、暴れるわ騒ぐわで、めちゃくちゃ手間のかかる患者さんだったわけです。

 さて、これは困った。受け入れないようにするか、しかしそうはいかない。脳血管障害の後遺症でも認知障害が出る。多発性脳梗塞の後遺症でも認知障害が出る。そして、何もなくても認知症になる。アルツハイマーですね。そういう患者さんが紛れて入ってきました。それで、どう対応したらいいのかと非常に悩んだ。25年ぐらい前の話です。当時は今日ほど認知症の解明が進んでいませんでしたので、慶應時代の友人である精神科医に、「変な精神障害の患者さんがいるので診てほしい」とお願いして当院に来てもらいました。そしてしばらくは、精神科医がお薬を出して、うまくいったりうまくいかなかったり、という感じでした。

 うまくいく時はすごくいいのですが、どうしてもダメな時もありました。そんなことを繰り返しながら、精神科医の先生が2代目になり、そして3代目になったころ、いわゆる認知症というものが見えてきました。もう1つ、何か別の病気があるぞ、ということを感じた。何か分からないが、この未知の病気はモヤモヤしていて、すべてにまたがる巨大な疾患であると考えました。そのころからでしょうか、認知症との格闘が始まりました。同時にそのころ、いわゆる「慢性期」という概念があるということが分かってきました。

 先述したように、最初は脳卒中患者の術後管理を中心にやってきましたので、「亜急性期」です。当時はまだリハビリという考え方がなく、「植物状態の寝たきり患者さんにリハビリなんてやっても無駄だ」という考えが主流でした。しかし、認知症の患者さんらが増え、リハビリをやるとだんだん良くなる傾向が見られた。現在の「回復期リハ」「維持期リハ」に相当するものだと思います。そして、認知症の患者さんが改善するにつれて、評判が広まって当院に認知症患者さんが集まるようになってきました。しかし、どうしてもうまくいかない患者さんがいる。その患者さんらは、うまく改善するグループと、どうもタイプが違う。

 うまくいくグループは、典型的なアルツハイマー病です。これが約6割です。当時、脳血管性の認知症が多くてアルツハイマー型は少ないと言われていましたが、実は診断技術がないため闇の中に埋もれていただけなのだということが分かりました。それから、「脳血管障害性の認知症」という言い方ですべてがごっちゃまぜにされていましたが、実はそうではなくて、アルツハイマーでもレビー小体型でもなく、またピッグ病でも、その他のタイプでもないもので、脳血管障害性の認知症がある。実は、脳血管障害性の認知症にはそんなに典型的なものはなくて、あまりはっきりした概念ではないというのが私の最近の感覚です。

 ですから、最初はすべて脳血管障害性の認知症だと思いこんでいたのですが、いろいろ色分けできるようになったら、実はほんの少ししかいない。典型的なアルツハイマーについては、経験的に治療法が確立して、ものすごくうまくいくようになりました。アルツハイマーなんてもう怖くない。すぐに良くなる。しかしうまくいかない患者さんがいる。レビー小体型認知症が2割近くいる。5~10%ぐらい、前頭側頭型のタイプ、そして解明不能な脳血管性、さらに分類不能の未知の認知症が数パーセントある。

 最近では、レビー小体型と側頭型は典型的な診療パターンを見つけることができました。この範囲では、BPSDの患者さんでもなんとかできるという自分のプロトコルをつくれるようになりましたが、まだ1~2割は未知の領域が残っています。認知症は本当に奥が深い。とてつもない疾患群だと思っています。

 私が子どものころは平均寿命が65歳で、若者が多い三角形の人口ピラミッドでした。当時はもちろん救急優位です。老人医療なんてやっているのは、「悪質」とまでは言いませんが、寝たきりの患者さんを点滴漬けにしている「悪い医療」というイメージがありました。あれから50年経ち、平均寿命が85歳になり、「高齢者医療」や「慢性期医療」という概念ができた。今や、治る病気は少数派、治らない病気が多数派です。時代はまさに武久会長がおっしゃるように、「急性期から慢性期」です。慢性期医療のほうがニーズがあり、市場が大きいと思っています。慢性期医療の重要性、必要性が高まっていると感じています。
 

■ これからの慢性期医療はどうあるべきか
 

 まず、「慢性期医療」の定義は何でしょうか。「救急医療」の定義については、次のように言えると思います。すなわち、完全に自立して生活している人が突然の疾病で今まで持っていた機能を一時的に失う状態になり、緊急治療することによって、その機能の大半を回復させる医療です。これは「従来型の医療」と言っていいかもしれません。

 一方、「慢性期医療」は、すでに回復不能な状態に陥っている患者さんや、保存的な治療しか選択肢がないような状態にある患者さんに対する医療です。さらに、発病前からかなりの身体的または精神的な機能不全があり、治療しても相当程度の障害が残って回復が望めないような患者さんに対する医療も慢性期医療です。また、すでに高齢または認知症のために治療や延命を希望しない状態にあり、「治療」の意味がかなり薄い患者さんに対する医療も慢性期医療であると考えます。

 この慢性期医療の最大の目的は、もっぱら苦痛の除去とADLの回復であろうと思います。苦痛の除去は、身体的な痛みの除去だけではなく、心の痛みや認知的な痛みの除去も含みます。認知症の患者さんは、BPSDがあるときは苦しんでいる。せん妄状態や、依存期(甘えの状況)にあるときは苦しんでいます。もちろん、介護者はもっと苦しんでいますが、本人も苦しんでいる。これは治すことができます。この苦痛を除去することによって、ADLはかなり改善します。

 以前、認知症の患者さんを縛ったり、部屋に鍵をかけて閉じこめたりしたような時代がありました。しかし、治してあげることによって問題行動はなくなり、自由になる。家族は安心できるし、介護者の苦労もなくなる。ADLの回復によって介護の手間が減ります。これが慢性期医療の醍醐味です。ですから、私が取り組んでいる認知症の治療は、苦痛の除去とADLの回復を目的としています。本人だけではなく介護者の苦痛も除去し、ADLを回復させること、これが私の最大の主眼です。そして、これができるようになった。これは、私が慢性期医療に携わってきた最大の成果です。

 ここで胃ろうについても少し触れます。私どもの病院にも、胃ろうがある患者さんがたくさん来ます。最近、胃ろうの患者さんが非常に増えました。1年間に約40万件の胃ろうがつくられており、この10年間で10倍になっという発表がありました。

 急性期病院がやたらと胃ろうをつくるのはなぜかと言いますと、早く退院させて平均在院日数を短縮させるために身体症状を安定させる必要があるので、胃ろうをつくるのです。「胃ろうをつくったので安定しましたから退院してください」ということです。
 以前は、胃ろうがあると介護施設などに入所できなかったのですが、胃ろうの患者さんのほうが扱いやすいので、胃ろうがある患者さんのほうが受け入れ先が見つかります。そうした理由もあって、胃ろうの患者さんが増えていると思います。

 しかし、胃ろう患者さんが増えるということは、延命する患者さんが増えるということですので、「医療費が多くかかる」という批判が出ています。そのため、「胃ろうをつくるのはよくない」とか、「本人が延命を望まないならば胃ろうをつくるべきではない」という論調もあり、これは行政などのミスリードであると考えます。つまり、「胃ろうは悪だ」というキャンペーンを張って、胃ろうがいかに悪いかを宣伝、報道している。

 日慢協では、こうした考え方に対抗しています。なんでもかんでも胃ろうをつくるのはよくないけれども、一切つくってはいけないというのもおかしい。いずれも両極端であると思います。当院では、胃ろうを特に勧めているわけではありませんが、否定もしていません。

 当院では、食事を口から取る「経口摂取」の見込みがある患者さんに対しては胃ろうを勧めています。その理由を少し説明します。経口摂取の訓練を始める際、点滴をしていると食べなくても水や栄養が入ってしまうため、食欲がわかないことがあります。また、鼻の管から栄養を入れる「経鼻栄養法」をするためにチューブを入れてしまったりすると、チューブを伝わって唾液が入り誤嚥の危険が増えます。そのため、経口摂取訓練が非常にやりにくいということがあります。
 従って、経口摂取訓練をするのならば、経鼻栄養法をやめたい。そうすると、十分に食べられるようになるまでかなり時間がかかりますから、その間の栄養が取れません。そこで、どうしても点滴を併用せざるを得ませんが、点滴をすると食欲がわかなくなる。やはり、胃に早く食べ物が入って、消化管の動きを正常に戻して時間をかせぐということをしたい。そのために、積極的に胃ろうをつくる必要性は否定しません。

 日慢協の病院をはじめ当院では、胃ろうのある患者さんを受け入れる際に、経口摂取を再び望むのかどうかを聞き直します。「経口摂取したいが駄目だと言われた」という患者さんに、鼻からのチューブを抜いて、もう一度、胃ろうを介して経口接種に戻った患者さんがかなりいます。体力が回復して歩行ができるようになり、元の病院に行ったら驚かれたという患者さんもいます。とっくに死んだと思われていたようです。急性期病院があきらめたのに、慢性期病院に来たら治った。急性期病院では、亡霊が来たかのように驚いていたようです。現在、ここまで進んでいます。

 日慢協の病院は、やはり介護力が優れている。慢性期的な知識をいろいろ持っていますので、さまざまな方法で栄養を改善したり、本人のモチベーションを高めたり、複合的な問題を1つずつ根気よく解決していくので、可能性が出てくるのだと思います。状態が伴わないのに無理矢理に口から食べさせて誤嚥性肺炎を起こしたり、それが原因で亡くなったという話を聞くこともあります。ただ単に経口摂取ができるかどうか、よく吟味する必要があります。どこの病院でも、どんな患者さんでもできるわけではないので、そこは慎重に対応すべきだと思います。しかし、すべての患者さんが駄目かと言うとそうではなく、可能性があればトライする。それでも駄目ならあきらめるという考え方をわれわれは捨てていません。日慢協の病院全体が「攻めの胃ろう」という共通認識で取り組まれていると思います。
 

■ 今後の診療報酬体系について
 

 私には持論があります。もはや全国一律の報酬体系などあり得ないということです。日本列島は南北に細長くて地域差が非常に大きい。氷に包まれるような北海道と、南国の沖縄の島々とを同じ報酬体系でやるなんて通用するのかと思います。「同じ日本だから」という発想で、全国一律の報酬体系にしているのはおかしい。
 
 医療報酬や介護報酬は、その地域ごとの資源や住民、もしかしたら文化も含めて、その地域ごとの報酬体系があって当然だろうと思います。異なる条件の中で、報酬の高い項目、低い点数などをつくればいいと思います。その地域で必要な分野については報酬を手厚くして、余っている分野は報酬を引き下げて競争を促して淘汰してもいい。それを決めるのは、都道府県や市町村です。これからは、そういう時代にならざるを得ないと思います。
 

■ 若手医師へのメッセージ
 

 私は、「慢性期医療に携わろう」という明確な使命を持って始めたわけではありません。先述したように急性期から始まって、病院の都合や家庭の事情などいろいろな要素が重なって、現在の慢性期医療や認知症治療にたどり着きました。最初から慢性期医療をやっていたほうが良かったのかは分かりません。

 どんな分野から入ってもいいと思います。一生、その分野ということではなく、10年、20年後に再び自分の進むべき道を考え直してもいいと思います。急性期で始めたから一生、急性期をやるということでもない。いやむしろ、これほど慢性期医療のニーズが高いのであれば、最初から慢性期の分野を狙っていくという方向性もあるのではないでしょうか。

 認知症の患者さんが200万人、300万人、もしかしたら500万人という時代において、認知症だけで1つの疾患センターや病院ができてもおかしくない。しかもこの分野が非常に遅れていて、急速に進化しているのですから、「認知症をやる」という若手医師がどんどん増えていいと思います。今から認知症の研究に取り組めばすぐにパイオニアになれるかもしれません。こんなおいしい分野はない(笑)。

 これから10年間、認知症をバリバリにやれば、間違いなくエキスパートになれるでしょう。医療や医学が進歩した21世紀に、まだこんな未知の分野が残っていたのかと思うほどです。若手医師のみなさんには、「今から認知症専門医を目指したらどうですか」と言いたい。短期間でプロフェッショナルになれます。しかも競争相手はいません。これが私からのメッセージです。
 
 一方、スタッフへのメッセージは、認知症への理解を深めてほしいということです。認知症の治療ができないために苦しんでいる患者さんがいます。認知症が分かるスタッフがいれば、認知症の患者さんを受け入れられる病院が増えます。しかし、認知症を理解しているスタッフが全体的に不足しているような気がします。医師だけではできません。看護師やワーカー、事務職員も含めて認知症に対する理解力のある人は貴重な戦力です。ぜひ、認知症が得意な看護師さん、介護士さん、薬剤師さん、栄養士さんらが増えてほしい。認知症を得意にすれば、どこでも引っ張りだこで、どこでも活躍できるだろうと思います。

 患者さんや一般の方々に対するメッセージとしては、認知症が疑わしいご家族がいましたら、認知症以外の理由でかかりつけ医に診せるようにしてください。風邪でも何でもいいので、「まずお医者さんに診せるようにしてください」ということをお伝えしたい。そして、かかりつけ医には家族から「最近、ちょっとおかしいので認知症かもしれません」と伝えておくといいです。認知症の程度が軽い人は自覚があるので病院に行くのですが、重くなると自分からは行きませんので、連れて行ってあげてください。

 先日、私の病院がある東京・大田区で調査しましたら、認知症と診断されていない方々、何らの治療も受けていない患者さんがかなりの数いることを推測させる結果が出ました。現在、認知症の患者さんは約300万人と言われますが、もしかしたら実態はその倍ぐらいではないかとも思っています。認知症であるのに、本人はそれに気づかすに普通に暮らしている。もしかしたらその人は、他人の生命に関わるお仕事をされているかもしれない。重要な機械や、危険性ある道具を使っている人かもしれない。そういう人たちが町にあふれている。

 早期の診断を受けられる機会を増やすことが必要です。アルツハイマーなら近所のかかりつけ医でも対応できます。アルツハイマーでない場合には、もう1つ上の病院、例えばわれわれのような認知症専門の病院などへの紹介状を出してもらえば十分間に合うケースがあります。あらゆるクリニックや病院、みんなで対応しなければ認知症への対応が間に合わない時代になっていると思います。
 

■ 日本慢性期医療協会への期待
 
 
 この数年間、私が所属している団体の中で最も先進的です。医療政策への提言、医療の質向上など、非常に熱心な団体であると思います。業界団体というものは、ややもするとパイの奪い合いであったり、既得権益を守るために奔走したりする傾向がありがちですが、日慢協は常に前向きで、自らを律する姿勢や、自分たちを批判する姿勢を忘れません。ですから、行政からの信頼も厚いのだと思います。行政から意見を求められることも多いのだと思います。

 武久洋三先生が会長に就任されてから、その傾向が顕著です。別におだてるわけではありませんが、会長の指導力は群を抜いて大変素晴らしい。今、とてもいい時期だと思いますので、ぜひ日慢協にみなさん加入していただき、会員であることを誇りに思って一翼を担ってほしいと思います。自分たちの病院も隆盛に向かうし、日本の慢性期医療は前に進むだろうと思います。(聞き手・新井裕充)
 

【プロフィール】

 熊谷 賴佳(くまがい・よりよし)
 昭和27年生まれ
 医療法人社団京浜会理事長 京浜病院院長
 病院所在地:東京都大田区大森南1-14-13

[学歴]
 昭和43年 慶應義塾中等部卒業
 昭和46年 慶應義塾高等学校卒業
 昭和52年 慶應義塾大学医学部卒業

[職歴]
 昭和52年 東京大学医学部脳神経外科学教室入局
 昭和52年 東京警察病院脳神経外科勤務
 昭和53年 都立荏原病院脳神経外科勤務
      東京大学医学部付属病院脳神経外科勤務
      都立荏原病院脳神経外科勤務戻る
 昭和55年 7月 自衛隊中央病院脳神経外科勤務
 昭和59年 4月 寺岡記念病院(広島県芦品郡)脳神経外科勤務 
      7月 京浜病院勤務
 昭和60年 新京浜病院院長
 平成4年 京浜病院院長
 平成12年 4月 医療法人社団京浜会設立 常務理事
 平成24年 4月 同理事長
 
[公職歴]
 平成10年 社団法人蒲田医師会理事(平成10年~)
      高齢者介護サービス体制整備支援事業における介護認定審査委員
 平成11年 大田区地域保健福祉計画策定委員会介護保険専門部会委員
      大田区介護認定審査会委員(平成11~18年)
 平成13年 東京都医師会予備代議員(平成13~21年)
      東京都医師会医療開発委員会委員(平成13~15年)
 平成14年 区南部地域医療システム化推進協議会委員(平成14~18年)
      東邦大学医学部客員講師(平成14年~)
 平成15年 大田区介護保険推進協議会委員(平成15~18年)
      大田区介護認定審査会会長代理(平成15~18年)
      自由民主党東京都第四選挙区支部副支部長(平成15~17年)
 平成16年 大田区介護保険推進協議会副会長(平成16~18年)
 平成18年 大田区養護老人ホーム入所判定委員(平成18~20年)
      大田区地域包括支援センター運営協議会副会長(平成18~21年)
      区南部地域医療システム化推進協議会委員(平成18~20年)
 平成19年 大田区地域保健福祉計画推進会議介護保険専門部会委員(~21年)
 平成20年 荏原病院運営協議会委員(平成20年~)
      日本慢性期医療協会理事(平成20年~)
 平成22年 社団法人蒲田医師会副会長(平成22年~)
      大田区地域密着型サービス協議会副会長(平成22~23年)
 平成23年 東京都医師会代議員(平成22年~)
      東京都病院協会理事(平成23年~)
      大田区入院医療協議会副会長(平成23年~)
 平成24年 東京都慢性期医療研究会理事

[資格]
 昭和52年 医師免許
 昭和58年 日本脳神経外科学会認定専門医(評議員)
 昭和62年 東京大学医学部より医学博士授与
 平成元年 身体障害者福祉法診断指定医
 平成10年 介護支援専門員
 平成12年 日本医師会認定産業医
 平成18年 厚生労働省の定める認知症サポート医
 平成19年 東京都介護支援専門員専門研修(専門研修課程1)修了
      厚生労働省の定める、かかりつけ医認知症対応力向上研修終了
 平成20年      同  上
 平成21年 平成20年度東京都身体障害者福祉法第15条指定医講習会受講
      厚生労働省の定める認知症短期集中リハビリテーション医師研修終了
 平成22年 日本慢性期医療協会認定医師

[業績]
 発明 頭蓋内圧測定装置(日本光電社製)
    1/fゆらぎ低周波治療器(日本メディックス社、学研社製)
    海水製富ミネラル補液の作成法
    
 研究 頭蓋内圧測定装置の開発、最適制御理論
    脳梗塞予防法としての抗血小板薬療法と血小板凝集能測定
    老人性痴呆に対する薬物療法
    高齢者における微量元素不足解消の意義
    
 著書 熊谷式3段階認知症治療介護ガイドbook(国際商業出版)
    認知症予防と上手な介護のポイント(日本医療企画)
 



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